This is how the WONDER happened.~ワンダーファーム代表 元木寛さんインタビュー~

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ハウスに一歩足を踏み入れると、「わぁ!」と思わず声をあげてしまった。天井まで吊り上げられたトマトのカーテンのお出ましだ。生い茂る葉っぱの間から、赤や黄色、紫、緑……と、色とりどり、形もさまざまな果実が顔をのぞかせている。柔らかい光を浴びて輝くさまは、まるでカーテンを彩るビジューのようだ。「わぁー」ともう一度声が漏れる。いわき市の「ワンダーファーム」の敷地には、およそ4万株のトマトを栽培するハウス、レストラン、直売所が並ぶ。代表の元木寛(ひろし)さん(45)にお話を聞いた。

——トマトって、もう収穫できるんですね。夏のイメージがありました。

そうおっしゃる方多いんですよ。でも実は、トマトの旬って春なんです。屋外で栽培するトマトの場合は夏ですが、今ではほとんどハウス栽培ですよね。トマトって、毎日の気温を足し合わせていって1,000度を超えると赤くなるって決まっているんです。ハウスだと夏は暑すぎるのですぐに1,000度を超えます。そうすると、中身の組織細胞が十分に出来上がらないまま熟してしまう。春はゆっくり気温が上がるので、中身も充実したトマトになります。酸味と甘味のバランスが取れた“トマト本来の味”がしますよ。

「昼夜の寒暖差で果物が甘くなる」と聞いたことはないですか?トマトも同じです。今、ハウスの中は……、27度です。暖房をつけなくても太陽の熱でこれだけ暖かくなります。夜はまだまだ寒いので、この気温差がトマトをおいしくしてくれます。旬はまさにこれからですよ!

——地面じゃなくて、四角いブロックにトマトが植えられていますね。変わった栽培方法なんでしょうか?

このブロックはヤシの実の皮や繊維を固めたもので、ここにトマトの苗を植えつけて栽培しています。トマトの生育に必要な水や養分を点滴のように与える「養液栽培」という方法です。トマトがどれぐらい栄養を吸収していて、どれくらい必要か、すべてセンサーで測って足りない分だけ自動で与えています。ハウスの中の温度や湿度、二酸化炭素濃度も測って自動で窓の開け閉めなどを行い、常にトマトが快適な環境を保っています。

栄養と水分を点滴のように与えている

——すごい!「最先端!」って感じですね。

ハハ。そう見えますが、「温度・湿度・水・栄養の管理」と、やっていることは農業の基本です。一方で、トマトの脇芽を摘む、紐を茎に絡ませて引き上げるなど丁寧な手作業が必要な仕事も多いです。トマト一本一本が意思を持った生きものなので、それぞれに個性もありますから、すべてを機械に任せることは難しいですね。

——虫や病気の対策はどうしているのでしょうか?

基本的に農薬は使わないようにしています。従来の農法では病気や虫が出ると農薬で抑えるというやり方が一般的でしたが、うちでは「予防」に重点を置いています。虫や病気が出にくい温度・湿度を保った上で、微生物の力を借りる。具体的には、微生物を含む水を空間に散布し、トマトを微生物でコーティングしておきます。すると微生物は病原菌が繁殖しづらい環境を作ってくれるので、病気の発生を防ぐことができるのです。

——もちろんそのまま食べられる?

はい。ですからうちではハウスの一部を収穫体験ゾーンにしています。トマトの病気を持ち込むのは人間なので、普通、農家さんはこういうことは嫌がられます。うちも微生物の力で病気を防いでいるとはいえ、多少のリスクはありますがいろんな方に見ていただきたくて。

「収穫」って究極の食育なんですよ。今年は収穫体験ゾーンで9種類のトマトを育てていますが、色が違うだけではなく、栄養価も味もそれぞれ違うんです。触って、食べて、「こんなに違うんだ!」と体感する。もちろん好みも千差万別ですから、自分の“推し”を見つけるのも楽しいですよね。体験を受け入れていてびっくりしたのは、うちに来るまで「トマトがどんな風になっているのか知らなかった」という方が結構いることです。確かに人生には必要ない知識かもしれませんが、「トマトの茎ってこんなに太いんだ、花って黄色いんだ、蜂が受粉させているんだ」と、学べることの中には自然の摂理も含まれている。それってやはり大事なことだと思うんですよね。

一番嬉しいのは、トマト嫌いの子が「トマトを食べられた!」「トマト好きになった!」と言って帰っていくことですね。トマトって人気の野菜でもありますが、子どもが嫌いな野菜の上位にもランクインしています。悲しいですが、一般流通しているトマトしか食べたことがなければトマト嫌いになるのもうなずけます。収穫と同時に鮮度の劣化が始まるので。ここに来れば、採れたての一番良い状態でトマトが食べられる。さらに“自分で取った”という体験も加わって、「おいしい」と感じるのは当然ですね。

人間の健康維持をする上で、「トマトを食べない」って本当にもったいないんです。トマトには、リコピン、βカロテン、GABA、アントシアニン、そして脂肪燃焼効果のあるトマチジンなど、他の野菜以上にさまざまな栄養素が含まれている。これだけの栄養素が含まれている野菜って他にない。だからこそ多くの人にトマトを食べてもらいたい。健康でいることが人の幸せの基本なので。

ワンダーファーム主力品種の「りんか」

——元木さんがワンダーファームを開いた経緯を聞きたいです!

私は福島県大熊町の出身です。サラリーマンの家庭に生まれて、農業の「の」の字も知らないで育ちました。いわき市の学校を出てJR東日本に入社し、JR時代に今の妻と知り合って結婚しました。妻の実家が、いわき市の江戸時代から続く農家だったんです。あるとき、義理の親父さんから「農業やらないか」と言われて。一緒に酒を飲んでましたので、「また冗談を〜」って笑って流してたんです。そしたら本気だったんですね(笑)。後継者がいなかったので、私に白羽の矢が立ったというわけです。JRという大きな企業を辞めることと、農業という未知の仕事に挑戦すること、二つの葛藤がありました。悩んだんですが、妻に泣きながらお願いされたのが決め手になりました。会社を辞めて、26歳になる年に農家になりました。

——今でこそ「脱サラして農家」みたいなことを耳にしますが、20年前ですか……。相当悩まれたでしょうね。

はい。ただ、実はずっと「将来は福島で仕事がしたい」って思ってたんです。福島が好きだったんですよね。若い頃はサーフィンをしたりして過ごして、福島の自然が好きだった。だからもともと、「都会に行きたい」という志向はありませんでした。JRに入って東京配属になったときはガッカリしましたね。ただ、入社すると仕事も楽しくなってきて、「俺はこのまま一生東京にいるんだろうな……」なんて思ってました。そんなときに親父さんから農業の話がありました。

親父さんはコメをメインに、少しだけトマト栽培をしていました。私もコメを作るつもりで帰ってきたんですが、ちょうどそのころ国の「先端農業補助事業」という話が降ってきたんです。先端的な農業を行う農家に対して施設代など一部を補助してくれるというものです。

親父さんがやっているトマト栽培というのが、実はすでに先進的な農業でした。20aほどの小さいハウスでしたが、中に入るとダーッとトマトがカーテンみたいに並んで、湿度や温度を自動制御していて、びっくりしたことを今でも覚えています。施設園芸の先進地であるオランダのシステムを導入したハウスでした。当時、そういうやり方をしている人は日本にいなくて、親父さんがトップランナーでした。コメは供給過多で米価が下がり続けていましたから、いずれはコメに変わる経営の柱を見つけなきゃいけないというタイミングでもありました。国の補助事業を使って同様のシステムの、さらに大きなトマトハウスを作るぞということになりました。

私は農業の知識がゼロでしたので、オランダに研修に行ったり、オランダから人に来てもらって数ヶ月間教えてもらったりしながらトマト栽培の技術を学びました。それでも最初は全然取れなくて苦労しましたね……。トマトが病気になっちゃったり、まったく実がつかなかったり。計画の半分しか収穫できなくて、「スタート早々潰れるのか?」なんて思いました。それから年々、少しずつトマトが取れるようになっていきました。そしてやっと満足できる量と味になった頃。経営もずーっと赤字続きでしたが、ようやく黒字になった翌年、東日本大震災が起きました。「うわーー」と思いましたね。しかも3〜7月は年間収量の3分の2のトマトが取れる時期、「まさにこれから」というときの震災でした。

濃厚な甘みとバランスの良い酸味の「フラガール」

——震災直後はどんな様子だったんでしょうか。

この辺りは津波の被害はなかったので、地震だけでした。自宅は断水しましたが、幸いトマトハウスは雨水と井戸水を使っていたので影響なし、停電もあまり長引かずに復旧したので大きな問題にはなりませんでした。ただ物流が完全にストップしてしまったので、トマトの出荷ができません。次に放射能汚染で「農産物が危険かもしれない」と騒がれ始め、出荷ができなくなりました。その間、ハウスの中でトマトはどんどん赤くなるわけです。トマトは、赤くなった実を取らなければ次の実がならないという性質があるので、出荷先はないけれど取らなきゃいけない……。1ヶ月以上、1日何トンというトマトを捨てていた時期がありました。

しばらくして、捨てていたトマトを避難所に配り始めました。当時、いわき市内だけでも避難所が60箇所ぐらいありました。そこでは毎日カップラーメンとパンしか食べていないと聞き、「じゃあうちのトマトを配ろう!」と思いついたんです。野菜がまったく手に入らなかったのですごく喜ばれました。

——風評被害はどうだったのでしょうか。

うちは震災直後から独自に検査機関を探して放射性物質検査を始めました。ハウス内での栽培ですから、事故直後を含めて一度たりとも基準値を超えたことはありませんでした。でも世間の目は厳しかったですね。震災前は東京の取引先が多かったんですが、すべてストップ。その後、5年ぐらいは東京には一切出せませんでした。出せるところといえば地元の青果市場ぐらいでしたが、ものすごい安かったです。通常1個50〜60円ぐらいのところが、1個10円ほどしか値段がつきませんでした。

そんな時期を支えてくれたのが、地元の人たちでした。夏、避難所生活が終わって落ち着いた頃に、「あのとき食べたトマトがおいしかった」と、うちの直売所に買いに来てくださったんです。直売所なら売りたい値段をつけられるし、市場みたいに手数料もかかりません。たくさんの方に来ていただいて、買っていただいて、なんとか資金がつながって倒産せずにすみました。今思えば、避難所にトマトを配ったのは一つの大きなターニングポイントでしたね。人の役に立つことをしていると神様は見てくれているんだなと思いました。

直売所に多くの方が来てくださるようになって、ふと周りを見回すと、周りの農家はみんなまだ「出荷できない」と苦しんでいました。「じゃあ、うちの直売所で一緒に売ろう!」と、なめこ農家とネギ農家に声をかけました。これがたくさん売れたんです。さらにうちはネット通販もやっていたので、「ネットでも売ろう!」と。これまた、たくさん買っていただいた。そのとき、「あっ!これって地元の農業の活性化につながるんじゃないか」と思ったんです。地域の耕作放棄地にトマトハウスを建て、脇にレストランと直売所を作る。うちのトマトだけではなく、周りの生産者の食材も発信するハブのような場所にする——。そうやって思い描いてつくってきたのが、現在の「ワンダーファーム」です。

ワンダーファームの様子(写真提供:ワンダーファーム)

——なるほど、だからレストランでは他の農家さんのお野菜が出てきたんですね。

レストランでは福島県を中心に7〜8件の農家から食材を仕入れています。震災まで、農家どうしの横のつながりってあまりありませんでした。むしろ、お互い技術を秘密にしたり、競争したりする文化がありました。ただ、私は農家出身ではないのでライバル意識のようなものがなく、素直に「連携した方がいいじゃん」と思えたんです。ここにさまざまな生産者が集まれば、“人のご縁”が生まれて何か新しいことが始まっていきます。また、外から来る人にとってみれば、トマトだけではなくてキャベツ、キノコ、ジャガイモ……、私だけではなくてAさんもBさんもいる……、というふうにコンテンツが色々あったほうが魅力的だと思うんです。

ワンダーファームのトマトをふんだんに使用したピッツァ

——ここに来るお客さんにはどんなことを伝えたいと思われますか?

まずはシンプルに楽しんでもらいたいです。その上で、農業に少しでも目を向けるきっかけになればと思っています。多くの消費者にとっては農家ってまるで別世界の人間で、「農業がなくても生きていける」と思っている人たちもたくさんいます。でも実は、農業がなくなると想像以上にさまざまな影響があるんです。

食糧生産が農業の役割であることは言わずもがなですが、「日本で野菜が取れなくなっても海外の野菜を輸入すれば済む」という話ではありません。海外の農産物の中には日本のものよりも危険なものがたくさんあります。一番安全なのは、どこでどうやって生産されているか見えているものです。

地域の環境維持のためにも農業は欠かせません。春になると田植えをした田んぼがキラキラ輝いて、夏には青葉が風に揺れて、秋には黄金色の絨毯のように稲穂が垂れる。これらは農家が農業をしているからこそ生まれる景色です。また、山に降った雨水が田畑を通って海に注ぐので、田畑はいわばフィルターの役割をしています。「堀払い」と言って、田畑の周りの水路が詰まらないように手入れをしているのも農家です。農家が農業をしなくなるとこのフィルターが詰まってしまいます。

そして、「食べる」ということは人間が生きていくための基本ですが、現代では当たり前すぎて軽んじられています。食べることの意味合いや重要性をもう一度伝えていくことも、農家の役割です。私もたまにあるんですが、忙しいときに食べものをバーっとかき込んで食事が“作業”になってしまう。食事は健康な身体をつくり、家族団らんの時間になる。そういう大事な意味があるのに、みんな忙しくなっちゃって、どうしてもただの“腹を満たすだけの作業”になってしまっている。おいしいもの、身体に良いもの、楽しい時間——それらを供給する農家は非常に大事です。

——東日本大震災から11年が経って、今どんなことを考えてらっしゃいますか。

まだまだできていないことがあります。福島県で、いわき市を含む浜通りだけが震災前に比べて観光・交流人口が減っています。やはり原発があることが大きなハードルになっています。

これまでの10年間はどちらかというと行政主導で復旧・復興に取り組んできました。この先10年は自分たちで描きたい。自分たちで描いてつくり上げていきたいです。
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取材の最後。「ぜひ、一緒につくっていきましょうね!」と、始終落ち着いていた声がにわかに弾んだ。目には子どものような純真な光が差している。コロナ禍であることを忘れて思わず握手しそうになった。誰もが皆、この先の10年を作っていく仲間だ。そう温かく迎え入れられた気がした。

(インタビュー・文・写真:成影沙紀)

元木寛
「ワンダーファーム」代表取締役。
「JRとまとランドいわきファーム」代表取締役。
「とまとランドいわき」専務取締役。
1976年福島県大熊町生まれ。

<ワンダーファームHP>
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