大野村農園で体験する “生涯忘れない経験”【大人の食育】レポート

よみもの

こんにちは!インターンをしている佐藤です。

先日、私と同じくインターンをしている大学生の仲間4人で、福島県相馬市の大野村農園で養鶏と農家をされている菊地将兵さんに一泊二日で会いにいってきました。その目的は、【大人の食育】を受けに。
大人の…? 食育…? 気になる響きですよね。

今回は、刺激的で、とても大切なことを得ることができた体験談をレポートにまとめたいと思います。

 

■大野村農園の「大人の食育プログラム」

 大野村農園で行っている大人の食育では、鶏を捕まえて、屠殺し、自分で捌く体験ができます。
この鶏は、ひよこの時から大切に育てられ、若鶏の時は毎朝たまごを産んで、たくさんのお仕事をしてくれた鶏です。
 菊地さんがこのプログラムを運営する理由はただ一つ。「私たちは、毎日、生命をいただいている」、そしてその背景には、「誰かが、生命を育てて、殺すという仕事を行っている」ということを知ることの重要性を伝えたいから。

 いかに貴重で大切な経験か、分かるけれども、実際ショックを受けたりもするこの体験。頭ではやってみたいと思いながらも、本当には自分はできないかもしれないと考える方も多いのではないでしょうか。
私は正直、本当に嫌だったら自分は見ているだけにしよう、見ているだけでも学ぶことはできるだろう、なんて考えていました。

しかし、結果的に全てのプロセスを自分で体験してみて、自分で体験することの重要性を感じました。

そして、いかにこのプログラムが人の意識・行動を変えるか、を身を持って知ったからこそ、この体験を全ての人に経験してもらいたいと思いました。
私はこの体験を通して、頭ではなく『心で』、大切なことを感じることができました。

 

■体験レポート

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 これ以降の記事には、鶏の屠殺シーンが写真とともに掲載されています。衝撃的なシーンと感じる方も多いと思います。生き物の命をいただくとはどういうことか、それを伝えたいという生産者さんや筆者の意図を重視し、あえて掲載することにしました。私たちの食卓にあがる全ての鶏肉が、方法は違えど、この記事で写された鶏と同じように命を失う瞬間を迎えています。できれば読み進めていただきたいですが、心身の不調をきたす方はこれ以降の閲覧はご遠慮ください。

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お手本を見せてもらう

 農園に着いて私たちはまず、将兵さんのお手本を見せて頂きました。
将兵さんは地面にしゃがみ、太めの木の枝に鶏の頸を押しつけ、ナタで頸を叩き切ります。
この作業は素手で行います。以前は手袋を貸していたそうですが、ある体験参加者の感想で、素手でやったからこそ鶏の温もりと心臓の鼓動を感じることができ、より体験の価値が増したという意見があり、それからは手袋は貸さないことにしていると仰っていました。

 お手本が終わると、将兵さんは「一人二羽だよ。」と言いました。
まだ覚悟が決まっていない状態の私は、淡々と目の前で進んでいく、将兵さんによる見本を、手で目を覆って、直視することさえできませんでした。
逃げたい気持ちが湧き上がり、自分の心臓がばくばくと打つのを感じながら、どうすれば、頭ではわかっているのに心がついていかない、この自分の状態を整理できるのか、自分と向き合いました。
「自分で殺せないくせに鶏を喜んで食べ、殺す作業はどこかの誰かに任せているというそんな無責任な状態でいるのは、いやだ」と思う気持ち、そして「最低限、その大変さを知り、他の人に伝えたり、常に感謝の気持ちを持ちながら生きる人間になりたい」という感情がふつふつと湧き出し、最終的に覚悟を決めることができました。心で言葉になっていないうじうじ、フワフワしていた感情を、理性的な重い考えで、心の底の方にスッと落ち着かせて固めました。 

 

鶏を捕まえにいく

 大野村農園の鶏は平飼いです。鶏は広い鶏舎を自由に動き回っていました。「好きなやつ捕まえていいよ」と将兵さんは言います。沢山いる鶏の中から、自分でいけそうだと思う鶏を両手で捕まえます。
広いところでは鶏も走るのが速いのでなかなか捕まえられません。密集しているところや小屋の角を狙うと簡単に捕まえられました。

覚悟はできたと思ったものの、実際に行動をしだすと揺れ出すのが、弱い自分の心。私は捕まえるために触ることにさえビビりながら、「やるしかない」の理性的な一心で小屋の角にいた鶏を捕まえました。


捕まえて次にするのが、左右の羽をクロスさせて紐で結ぶ作業です。結ぶことで、鶏を楽に持つことができるようになります。
羽をクロスさせるときは、自分がこの鶏よりも強い力を持っていること、鶏を自分次第でどうにでもできる立場である、ということを認識しました。やると決めて、クロスさせるとボキと音がなり、鶏はぎゃーと鳴きました。

 

 

鶏をナタでしめる

 しめる手順はいたって簡単。お手本で見せてもらったようにナタをおろして、鶏の頸を切る。たったこれだけです。しかし言うまでもなく、言うのとやるのとではまったく違います。

太めの木の枝に頸をおしつけ、ナタをおろすところを定めます。鶏の首は長いです。静かに伸ばす鶏もいれば、ひっこめる鶏も。抵抗する鶏は、何回も何回も、鶏の決心がつくまで頭をつまんで頸を伸ばしてやります。

 私は、ナタを振り下ろす準備が整って、あとは右腕に力を入れるだけになった時、このタイミングで一番、自分の心の弱さと向き合いました。

自分の意思とは関係なく自動で右腕に力が入って振り下ろしてくれればいいのに、と思ってしまう。しかし、振り下ろすのは、自分の意志で、自分がコントロールする力でしかできないという当たり前のことを、心がうろたえながら頭で理解しました。

 あと一歩の勇気が出ないシーン、最後の一歩で踏ん張らなければいけないシーンは、今までも何回か経験してきて、きっとこれからの人生でもまだまだ出会っていくのだろうな、とまさにそんなシーンを痛感しながら、変に俯瞰した考えもよぎったりしました。

 

 ナタは振り下ろして1回で命中するといいのですが、恐る恐るやってしまうので、場所が違ったり力が弱かったりで、なかなかうまくいきません。振り下ろしたその瞬間、振り下ろしたナタからも、左手で抑えている鶏からも生命の感覚を感じます。鶏は「ア゛ー」と苦しそうな声もあげます。

私は1回目、震える手で振り下ろしてしまったので力が弱く、鶏にとっては叩かれた程度だと言われ、2回目は、もうその時には意図的ではなく自動的に真っ白になっていた頭と心のまま、思い切りナタを振り下ろしました。

しかし、2回目にナタを振り下ろして鶏に強くぶつけた時、自分でも驚きました。私の頭と心の状態は真っ白なのに、自分の口からは嗚咽と悲鳴のような声が、目からは涙が溢れ出しました。

ナタが命中すると鶏は暴れますが、その反動でナタを放してしまうと、返り血を浴びてしまうので左手でぎゅっと押さえつけます。この時の鶏の力はかなり強く、それは最後の最後の力を振り絞り、まだ死にたくなかったと言わんばかりの生命を感じます。

まだ足りないと言われ、その後複数回なたを振り下ろしました。その度に、意識して右手をコントロールするので、生命を自分で終わらせていることを認識します。「ごめん」の感情が心いっぱいに肥大化し、なたを振り下ろすたびに、自分も叫び、嗚咽し、涙が止めどなく流れました。

左手で押さえつけていた力が弱まっていき、だんだんと閉じていく鶏の目。30秒ほどナタを押したままにして、ついに静かになります。ゆっくりナタをあげて、まだ切れきっていない首を、完全に体から切り離します。

 この一連の作業が終わった時、私は無の状態でした。感情移入してしまったら、ナタを振り下ろすことはできなかったので自動的に、無になっていたのです。しかしそれでも溢れ出した自分の悲鳴と涙。泣ける映画を観た時に溢れ出す涙と感情とは異なる、心の揺さぶり方を経験し、心が強くなった感覚も感じました。

 ここまで体験しきるのに、激しく感情と向き合い、沢山のエネルギーを使い、疲労感を感じました。いつも頂いているお肉は、誰かが日々、この思いをしながら届けてくれているものなのだと、心に深く刻みました。

 

茹でて、羽をむしる

しめた鶏を血抜きした後は、羽を抜きやすくするために10秒ほど茹でます。茹でた後、毛穴が締まってしまわないように素早く、羽をむしりとります。

急いでむしる作業に、もう抵抗はありませんでした。殺したのだから、後はあの生命を無駄にしないように、自分の最善を尽くしたいという気持ちに変わっていました。

 むしっていると、クリスマスチキンでよく見る姿になっていきます。
今まではクリスマスチキンを見ても、そこにフワフワの羽と頭がついていたというイメージは湧いていませんでしたが、この経験をしたら、パック詰めにされた綺麗に捌かれたお肉からでも、動いていた「生命」の姿を想像することができるようになりました。それは決して、食欲低下を引き起こす類のものではなく、生命とそれを届けてくれる生産者への感謝と、食材を大切に扱う意識が醸成されたということです。

まだまだ未熟ですが、食べるものに対して、食べる人として、向き合うことが本質的にできるようになった気がします。

 

お肉を捌く

 むしった後は、お家に帰り、お肉がわるくならないうちに将兵さんの奥様、菊地陽子さんに捌き方を教えてもらい、みんなで捌きます。

 鶏のお肉を捌くのは、スタンスとしてはお魚を捌くのと変わりませんでした。しかし初めての経験だったため、新しく知れたことが多く、好奇心と疑問が沢山湧き出てくる体験でした。

もも肉と胸肉、ささみや砂肝、レバーの場所、それぞれの部位を綺麗に分けて捌くことのむずかしさ、一生分のたまごとなる細胞が集まった組織の存在、一羽からこれだけの量しかとれないこと…。

 

生命をいただく

 捌いたお肉は、その晩の夕食の唐揚げになりました。

正直、自分でも驚きましたが、鶏を捕まえるところから全てのプロセスを追ってきたはずなのに、できた唐揚げを見るといつも通り見慣れた唐揚げで、簡単には、あの動いていた鶏であるように見えないのです。もちろん経験したのだから、その日に自分がした出来事を振り返って、唐揚げと結びつけることはできます。しかし、調理してしまうとこんなにも簡単に、食欲に変わってしまう人間の本能に驚きました。
調理され、お料理となった食材から生命を、「意識的に想像する」ことの重要性を感じました。そのためにも、やはりこのような食育の経験は、生涯、貴重な経験として残るものだと感じました。

最後に

 ここまで、大野村農園の大人の食育体験を、かなり私の感情の揺れ動きの描写多めでレポートしてしまいました。というのも、改めて振り返ってもこの経験は私にとって、それほど心へのインパクトがあったからです。

 おもしろかったのは、一緒に同じ体験をした他のインターンズは、私とは異なる心の動きや体験に対する好奇心、疑問を感じていたことです。
例えば一人の男の子は、屠殺する場面で私ほど感情的に涙を流す状態にはならないけど、切り離した鶏の頭をじっくり観察していたりしていて、私とは異なる関心を持つポイントから、自分の特性を認識していたりしました。彼がこの体験レポートを書いても、私とは異なる視点からの感想があるのだろうなと思います。

 最後になりますが、効率的で便利になった現代社会において、生産者と消費者の距離は遠く、食材の生産情報を知らなくても、日常生活に困りません。しかし、このように生産者が普段されている仕事や、「生命を食べること」に向き合うことで、自分の中に湧いてくる感情は、自分を一回り魅力的な人にさせると思います。
この大野村農園での体験では、生産者とつながりを作ることができ、食材へ込められた想いとその育てられ方を知ることができ
ます。
この経験は、生涯忘れません。絶対できない、いやだと思っている人、どんな人にもおすすめしたい経験です。

 プログラムを提供してくださっている菊地将兵さん陽子さんはじめ、大野村農園の皆様、ありがとうございます。

■大野村農園の体験プログラムはこちら
https://www.oonomuranouen.com/

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