近年、その品質が認められて海外での市場も拡大している福島県産のフルーツ。福島市の果樹農家、阿部秀徳さんは、数年前から個人で海外への営業を重ね、タイ・シンガポール・ドイツなど複数の国に最高級のフルーツを輸出しています。18歳からオートバイレースの世界で命懸けの勝負をしていた阿部さんは、やがて「りんごの神様」と出会い、福島のフルーツで世界と勝負する道に進みます。桃の育成が真っ盛りの8月末、阿部さんにお話を伺ってきました。
(聞き手:小笠原隼人 編集:金舞雪、髙田優花)
阿部秀徳(Abe Hidenori)
福島県福島市出身。震災の前年の2010年から父の跡を継ぎ農家になる。以前は、バイクのレーサー、保険代理店の営業などをしていた。現在は、桃・リンゴ・さくらんぼの生産のほか、無添加ドライフルーツの販売なども行っている。農産物生産加工工程の中の食品安全・環境保全・労働環境などの審査を経て認証される。「ASIAGAP」も取得しており、安心・安全でおいしい果物の生産を目指す。緻密にこだわりぬいた果物のブランド化や個人での海外輸出の開拓を進めている。
ABE果樹園公式サイト:https://www.abe-fruit.com/
――農家を始めて、11年目ということですが、それ以前は農業を継ごうと考えたことはなかったんですか?
そうですね。親父とお袋は、2人でやるにはかなり広い面積の農園で果樹を作っていたので、とにかく忙しかったんですよ。それで、子供の頃から親に手伝えと言われて、手伝うことも多かったですね。でも、あまり楽しいとは思っていませんでした。ずっと継ぐ気は無かったです。嫌でしたね。
しかも、今だったら、DVで通報されんじゃないかってぐらい、親父が怖かったんですよ。悪いことすると、 ボコボコにぶん殴られました。そんな怖い親父だったんで、余計継ぐ気はなかったというか、高校が終わって18才の時には、家を出てレースの世界に飛び込んでましたね。
――そうだったんですね。それで、レースの世界へ。
そうです。それから、10年間ぐらいずっとオートバイのレースやっていたので、ほんとにそれで食えるなら、それで食いたかったですよね。でも、レースの世界ってめっちゃお金かかるんですよ。それで、だんだん、僕は無理だなと思うようになって、27くらいで、全く別な仕事を始めました。保険代理店の営業の仕事です。同時に、ハローワークの再就職セミナーの講師なんかを務めたりもしていました。
――レーサーというのは、今とはまったく異なるお仕事だと思うのですが、その頃の経験が農業に生きていると感じることもありますか?
すごくあります。やっぱり、自分の原点にあるのは、レース界で学んできたことというか、それがすごく大きいんですよね。 レースの世界って、ちょっとミスると大けがしたり、場合によっては、死んじゃったりもするんですよ。実際僕の周りの人間も、何人もサーキットの事故とかで死んだりしていて。まぁ、まだ、若いうちに胃がキリキリするような、命を懸ける経験をしておいて良かったのかもしれないなぁとは思いますね。
それと、やっぱり、大切なのはチームなんですよね。レースで速く走るためには、ライダーがいくら才能があっても、バイクの設備がだめだったら良いタイムは出ないし、運営するスタッフとか、そういう人達をひっくるめて、良いチームになって始めて、頂点に立てるんですよ。農業も全く同じで、結局僕一人だけじゃ、出来ることって限られてるんですよ。事務をやってくれるスタッフさん、現場でやってくれるスタッフさん、みんながいて、初めて成り立つわけじゃないですか。やっぱり良いチームをつくっていくっていうのは、大事だなって感じますね。
あとは、レースの頃は、自分より速い人がいると、金網にへばりついて見るんですよ。すごく、細かいことの積み重ねが一瞬のタイムに関わってくるので、どんな風にブレーキやアクセル操作しているかを観察するんですよね。練習走行とかで走るときも、早い人の後ろを付いていくと必ず学ぶことがあって。自分自身、農業を始めたときに、他の人が10年かかるところを、何とか5年くらいで習得してやろうという気持ちがあったので、レース時代と同じように、とにかく上手な人のところに行って学ぼうという意識は強かったですね。
(レーサー時代のお写真)
――そのような経験を経て、「農業を継ごう」と決心したきっかけは何だったんですか?
うーーん。本当に、鬼のような親父だったですけど(笑)70ぐらいになったときに、夏ランニング着るじゃないですか、その背中が、ほんとに小さく見えるようになっていて……
なんというか、うまく言葉にできないんですけど、親父も歳をとったんだなぁとしみじみと思いまして。これはもう親父が元気なうちに跡を継いでおこうかなと、ふと思ったわけですよ。まぁ、周りからも、親父の跡継いだほうがいいぞって、言われたのもあったんですけど。なかなか、きっかけとかがない中で、なんだか、これは、やっぱり、跡継ごうって思いましたね。
本当に、それまではやるつもりはなかったんですよ。でも、自分自身、歳とともに尖っていた部分がだんだんマイルドになってきたのもあって。若い頃はイケイケどんどんで、周りや親の言うことなんか聞くかみたいな感じだったんですけど。歳と共に、親のありがたみであったりだとか、そういうものがだんだん分かるようになって、親父の背中見て、いろんなことを感じましたね。ちょうど一昨日も、親父に頭バリカンで刈ってくれって言われて、刈りながら、親父もこんな風になったのだなって、改めて思ったり、親父も自分も歳をとったっていうのが大きかったのかもしれませんね。
――農業を始めてみて、ご両親の存在の大きさを感じられていますか?
そうですね。親父が去年の5月ぐらいに食道がんになって、1年くらい入院していたんですけど、親父がいない1年間の中で、親父とお袋の存在の大きさを改めて痛感しましたね。親父は、長年やってきているので作業が正確で速いし、休まないで、日曜でもこつこつやっているので、僕らが手の回らない部分を、やってくれていて。作業的にみても、2人の存在はすごく大きいんですよ。昔は、今よりは栽培面積も小さかったですけど、それでも、たった2人でよくコツコツと、ここまでやってきただけの力はあるなぁと思いますね。
それと、親父とお袋は品質に関してとても厳しいほうなんですよ。例えば、僕が贈答用で大丈夫だろうと思っている品質の桃でも、お袋とかに箱詰めを教わったパートさんの基準では、家庭用だったりとかして。そういうスタッフがいるから、品質を維持できているんですよね。うちのお袋とか親父が、パートさんに教えてくれたことが、いまでも生きているし、スタンダードをそういう高いレベルでつくってくれたことには、感謝しかないです。
(お父様と秀徳さんで農作業中の写真)
(ご両親と秀徳さん並んで)
――ご両親以外で、阿部さんの農業に影響を与えている方はいらっしゃいますか?
実は、「神様」と呼んでいる人がいまして。「福島成田会」っていう、福島で農業に従事する人たちの勉強会があるんですけど、僕も農業を始めるときに先輩に誘われて、その会に入りました。その会を作ったのが、神様である「成田さん」なんです。神様は、もう92、93歳で、70年くらい青森でリンゴを作っているんですね。今は、ご高齢なので、福島には来ないんですけど、ほんの4年ぐらい前までは、剪定の時期になると、福島に来て、僕らの園地(編集部注:果樹の栽培されている土地のこと)を回って指導してくださっていました。神様は、弟子の方に「これ」「あれ」っていう風に切るべき木を指示していくんですけど、それが、弟子の方が、全く追いつけないスピードなんですよね。なおかつ、できあがりもすばらしくて。本当に、恐るべしって感じですよね。この人には、木の根っことか、これから枝がどんな風に成長していくかとか、全部見えてるんじゃないのかなと思ってしまうくらいでした。それで、少しでも、神様の技術を学ぶために、僕は、頻繁に青森に通いましたね。神様の園地へ行って、それで、神様がどういうふうにやっているのかをずっと見てました。最初のうちは見ても分からないですよ。赤いりんごがなってるな、しか分からないですけど、そのうちに、だんだん神様が見ているポイントとかがわかるようになってくるんですよね。まぁ、でも、結局、歴史っていうか時間の経験っていうのは、埋めることができないですよ。大変な思いもしてるだろうし、成功も失敗もあるでしょうし、本当にすごい人ですね。
それと、神様は結構厳しくて。僕らもみんないい大人っていうか、すでに親父なのに、80過ぎたおじいちゃんに、怒られるんですよ(笑)みんな一応、農家の社長なのに。「こういう風に教えたはずなのに、それが全然出来てないよ、管理がなってない」って怒られるんですよ。でも、技術的な問題だけじゃなくて、みんなが、経営で豊かになって欲しいとか、そういう思いを神様は持ってくれていて。だから厳しいことを言うし、逆に、この歳になって厳しいことを言ってくれるっていう人は、まずいないじゃないですか。だから、やっぱりこの人は、本物だなって思いますね。
(青森で神様とのツーショット)
――阿部さんにとって農業の魅力とは
この業界って、まだまだ未開の業界ですよね。他の業界と比べて、やり方次第でまだまだ新しいことが生まれる業界なのかなっていう感じはしますね。僕は、特に輸出に力を入れていきたいなと思っていまして。一般的にJAさんなどを通して、「福島県産」として輸出することが多いですが、うちは個人で輸出をすることにこだわっています。今は、タイに輸出を行っています。今年はサンプル的になんですけど、桃を1~2箱ドイツに送っていたりもしています。あとは、ドバイも攻めたくて、コロナ前には、ドバイに行ったりしていました。
福島産の場合、震災前は台湾とか韓国、香港には輸出していたんです。でも、原発事故で香港だめ、台湾、韓国もだめって感じで、1回大きいマーケットを失っていて。結局、輸出出来ない間に他県に棚を奪われてしまったという事情もあります。
でも、ヨーロッパや中東って地理的に、そもそも日本の食べ物がとても珍しくて。多分、僕らが思っている以上に日本のものが認知されていないんですよね。だからこそ、これから伸びしろがあると思っています。例えば、桃も、海外のものは、日本の桃みたいに甘くはないんですよ。向こうの人達はそういう品質のものが当たり前だと思っているので、1回食べてもらったら、中東やヨーロッパへの輸出もやりやすくなってくるのかなと思いますね。期待できると思います。値段的には、高くなってしまうと思うのですが、海外でブランディングして行く中で、ひとつひとつにかけている手間暇や想いを理解して購入してくれる人、価値を感じて食べてくれる人が増えるといいなとは思いますね
(海外で商談中の阿部さん)
――今後の目標は?
今、スタッフの人達が仕事をだんだん覚えてきて、できるようになって、成長していく姿を見ていくっていうのが、僕の嬉しいことなんです。楽しいし、そうやって人が育っていくことが、次の展開につながっていくと思うんです。いろいろ機械化、AI化、IT化って言われても、特に果樹の場合は、人の手をかける部分が圧倒的に多いので。スタッフが成長することで、新たなことを始められるといいなと思いますね。
それと、今うちで働いてくれているスタッフの方も何か縁があって、一緒に働けているので、人と人とのつながりの中で、いろんなものが生まれてくるのかなって思うし、そこの部分って大事なのかなって。最近すごく思います。例えば、今日の「チームふくしまプライド。」のインタビューだって、東の食の会さんが主催する勉強会に参加しなければそもそも声がかからなかっただろうし、青森の神様との出会いがなかったら今みたいな品質への意識は生まれなかったと思うし、海外への輸出に関しても、結局は間にいる一人ひとりとの繋がりで実現できています。だから、「目標」になっているかは、わからないけれど、人と人とのつながりの中で、また、何か新しいものが生まれていけば、面白くなるんじゃないかと思っていますね。
(取材中、休憩していたスタッフさんたち)
(阿部さんの愛車。消毒に使用する作業車ですが、黄色はとても珍しいそうです。)
(取材当日は快晴! とても気持ちの良い日でした!)
編集後記
阿部さんの、真っすぐなこだわりと、併せ持つ柔らかさが、美味しい果物に詰まっているのだなぁと感じるお話でした。農家ではなかった時間が長かったからこその経験や気付き、学びや発見が、阿部さんにしか作れないオリジナルをもたらしているのだなぁと思いました。
阿部さん一押しの桃は、今の季節が旬のさくら白桃。硬くても、柔らかくても甘い桃だそう。食べるのが楽しみです。
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