無職から社長へ。人生の崖っぷちから救ってくれた町「浪江」の未来をエゴマでつくる

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震災以前から浪江町で栽培されている「エゴマ」の栽培・商品開発を通して、若者が浪江町で生きていくためのモデルとなるようなビジネスの在り方を目指す和泉さん。ホームレスや鬱状態といった、様々な過去を乗り越え、避難解除後すぐに浪江町に移住し、この町と共に生きることを決意します。栽培開始から3期目、エゴマの葉っぱが青々と茂る中、和泉さんにお話を伺いました。

(聞き手:小笠原隼人 編集:金舞幸、髙田優花)

 

 

和泉 亘(Izumi Wataru)

福島県白河市出身の29歳。NPO法人「みんぷく」で復興公営住宅のコミュニティづくり業務で浪江町担当になったことをきっかけに、避難指示解除後に浪江町に移住。「ゲストハウスあおた荘」の運営、浪江町でイベントを企画する「なみとも」の立ち上げを行う。現在は、株式会社「浜のあきんど」を設立し、道の駅なみえにて「麵処 ひろ田製粉所」とエゴマ栽培・商品開発を行い、浪江町に住む若者の先駆者となるべく奮闘している。

<経歴>

1992年 福島県白河市出身
2011年 高校卒業時に東日本大震災を経験
2013年 上京して住宅メーカーに就職
2015年 福島県に戻りホームレスになる、友人宅に居候
2016年 恩人池座さんとの出会い・NPO法人「みんぷく」にて浪江町担当になる
2017年 浪江町避難解除ともに浪江町に移住・あおた荘創設
2018年 「なみとも」設立
2019年 ひろたさんとの出会い・エゴマの栽培開始
2020年 あおた荘をクローズ
    「浜のあきんど」設立(道の駅なみえで「麵処 ひろ田製粉所」を開店)
2021年 エゴマ商品開発始動etc…

 

――エゴマの栽培をはじめたきっかけは何だったんですか?

元々、浪江でエゴマ栽培をしていた石井絹江(いしいきぬえ)さんという方から、一緒にやらないかと誘われたのがきっかけです。
それと、私の中で一番大きな要因は浪江の原種でエゴマがあったことです。元々その土地で作っていたけれど、原発被害でなくなってしまったものを、再開してやり続けていくのが大事だというのが私の考えです。なので、どうにかエゴマの栽培を引き継いでいきたいと思っていました。農業は、元々やっていた人が引退したら、荒れ地に戻ってしまうので、それをどうにかするためには、農業をやっていく若い人を増やしていくしかないのかなと思っています。エゴマを1つのきっかけに、農業を拡大したいと考えています。

 

エゴマ栽培のきっかけとなった石井絹江さんとの農作業中の様子)

 

――実際、はじめられるときは大変だったんじゃないですか?

そうですね。最初は、浪江に戻ってきて農業やりたいけど何していいか分からないという方に、石井絹江さんと一緒に声をかけて、組合を立ち上げました。元々2000ヘクタールの農地が浪江にはあって、土地はいくらでもあるという状態でした。でも、今使われているのはたった100ヘクタールぐらいです。震災以前に農家をやっていた方はほぼ避難して、そのまま戻らないか、戻っても、みんな80歳ぐらいになってしまっていて、なかなか農業再開することはできないのが現状です。そうすると、「俺の農地使ってくれ」っていう人が沢山居るので、浪江の農地はほとんど使いたい放題です。今は、10ヘクタールくらいで、エゴマを栽培しています。

あと、機械は組合の方に貸していただいたり、補助金を活用して購入したりでなんとか始められたという感じです。ただ、地域の人の協力がないと絶対できなかったことは確かです。

 

見渡す限りの広大なエゴマ畑、取材時エゴマは160センチほどあり圧巻の景色だった)

 

――栽培をはじめて3年ということですがいかがですか?

農業には、生産面を安定させないと次の販売につながらないという側面と、逆に、販売面を安定させないと生産もできないという側面、2つの側面で大変さがあります。そこで、まずは販売を安定させるために会社「浜のあきんど」を立ち上げました。自分たちで油にしたり、廣田さん(注1)や大就(だいじゅ)さん(注2)と一緒にエゴマを使っての商品開発をはじめています。エゴマを使った特産品を作って、経済を活性化させたいという目標があるので商品開発には力を入れていますね。

それと、浪江で農業再開している人たちは、避難解除後に戻ってきた人がほとんどです。その人たちは、自分たちの土地を守りたいからやっているのであって、自分たちの生活のための生業としてやってるわけではありませんなので、自分がある程度基盤を固めて、農業をやりたい人に対して、ちゃんと農業で生きていけますよと言えるようなモデルづくりをやっている感じです。

注1 廣田さん・・・株式会社GNS代表取締役、株式会社あきんど代表取締役商人の廣田拓哉さんのこと。『浜中会津の生産者・加工業者・流通事業者・小売店』が参加する、地域商社の連携プラットフォームを運営している。

注2 大就さん・・・一般社団法人東の食の会専務理事の髙橋大就のこと。東の食の会では、福島・東北の特産品を生かしたヒット商品の開発や、福島の食のファンクラブ『チームふくしまプライド。』の運営などをしている。

 

 

――出身は白河ということでしたが、そもそもなぜ浪江で農業をするようになったんですか?

話すととても長くなるんですけど(笑)
元々は白河出身で、高校は、自宅から離れた石川町の学法石川高校に通って、下宿生活でした。学費は特待生で入ったので免除されてる部分があったんですけど、親はよく言えば自由、悪く言うと居ないも同然のような人たちで、仕送りみたいなものはなく、生活費を稼ぐためにとにかくバイトという感じでした。次第にバイトが楽しくなってきて、あまり学校には行かなくなりバイトばかりしていました。2011年に高校を卒業して、短大の入学を控えているときに震災があって、入学が遅れて、夏休みがなくなったことを覚えています。短大を卒業して、東京の建築関係の企業で働くことになったのが20歳の頃です。そこでは、営業と設計というかたちで個人住宅の受注を受けるような仕事を22歳ぐらいまでしました。でも、その会社はあまり良い会社ではなく、実績をあげた分だけお給料がもらえる仕組みのはずが、売っても売ってもお給料をもらえないということが続き、会社と揉めてしまって辞めたのが22歳のころでした。そんな環境もあって、その頃はかなりグレていましたね。今、昔の自分に会ったら蹴り飛ばしたいくらい、人様に言えないような悪いこともいっぱいしてしまいました。会社を辞めて、行くあてもなく地元に戻ってきたんですが、親にも頼れずホームレスみたいになって、いわきの友たちの家に転がり込みましたね。やつは中学からの同級生で、今、会社の事業の一つであるラーメン屋で店長をやってくれています。

それから、半年ぐらいは鬱状態になってしまって、何もできずにいました。このままじゃやばいなと思い、いわきの飲食店で働き始めたのですが、一度社会から外れてしまった経験があると、「自分は何やってもだめなんだ」みたいな感じになってしまって、自分の将来像が想像できなくなってしまっていました。

そんな状況を、ホ―ムレス支援などをされているNPOの人に相談しました。それが、僕の恩人の池座(いけざ)さんという方なんですけど、この人との出会いが僕の人生の転機と言えるかもしれません。「NPO法人みんぷく(旧3.11被災者を支援するいわき連絡協議会)」という被災者支援をしている団体の仕事があると紹介してもらい働くことになりました。みんぷくというのは、震災後に立ち上がったNPOです。原発被害を受けて避難している人たちが、復興公営住宅に移り住んでいる時期に、福島県の委託を受けてコミュニティを作る支援をするという業務を行っていました。復興公営住宅に住む人達は、浪江は浪江、大熊は大熊など、同じ町から来た同士でまとまって住んでいるんですけど、これまでとはご近所さんの顔ぶれが変わってしまうので、新しい環境になじめずにいる方がほとんどでした。そのときに、自分が担当したのが浪江の人たちの団地でした。そうやって浪江の人たちと繋がる仕事が出来て、ホームレス状態からようやく自立して生活をし始めたのが2016年の24歳のときです。

1年ぐらい働いたときに、浪江町が避難解除になりますという情報がメディアで出始めていました。浪江町の人たちも、自分たちの町が避難解除になるというと集まって話し合いをして、そのなかで、自分たちの町に戻るか、戻らないかという話し合いをすごくしていました。でも、戻りたいけど、戻れないというのがほとんどの町民さんの意見でした。新しいところに移り住んで、2011年から2016年までの約5年の期間があったんです。小学生ぐらいだった人が大学生になって、若い人だったら新しい仕事に就いて、高齢者だったら病院とか、それぞれに新しいコミュニティがもうできはじめているときに、浪江町に戻ってくださいって言われても、買い物できる場所も病院もないし、戻りたくても戻れないというのがほとんどの意見でした。それを聞いたときに自分に何か出来ることはないかなと思い、町民さんが、「若い人なんか戻らないし、あの町に希望はないよね」と言っていたので、それなら、まずは若者の一人として自分が住んでみようと思い、避難解除になった2017年3月31日に、当時住んでいた福島市から浪江町に移住しました。

 

(なみともでの活動のお写真)

 

――壮絶ですね…… 浪江に来てからはどんなお仕事をされていたんですか?

そうですね。来てみたはいいものの、仕事もないし、貯金もないしっていう感じで。まず自分ができそうなこととしてやってみたのはボランティアです。草刈りや木の伐採をしたり、夏祭りとかイベントのあるところには顔を出しながら、浪江町に何が必要なのかというのを聞いていきました。そこで、町民の方は人が集まる場所が必要だという話をしていました。今の浪江には、集会場とか公民館みたいなところもなかったので、町民の方が集まれる場所を作ろうと考えはじめました。加えて、自分の家も探さないといけないなという状況もあり、区長さんに相談したところ、もともと民宿だった場所を紹介してもらって、『あおた荘』というゲストハウスと自分の住居を兼ねた場所を作り、人が集まれるようにしました。あとは、浪江町の数少ない若者仲間の小林奈保子(こばやしなおこ)さんと一緒に、あおた荘を拠点として活動する団体をつくりました。「浪江で友たちを作ろう」という意味を込めて、「なみとも」という名前をつけました。なみともでは、浪江町に住んでいる高齢者とか、浪江町に興味を持って来る大学生などの若い人など、様々な人たちを巻き込んで、日々の生活を充実させたり、わくわくするものを作るようなイベントを企画しました。流しそうめんとか花見をしたり、バーベキューしたり、学生のプロジェクトの手伝いをしたり、その団体は今も続けています。

ゲストハウスの運営だったり、なみともでの活動だったりをやっていく中で、自分はコミュニティづくりが本当に好きなんだなと気づきました。

そして、コミュニティづくりというのは、外からやって来た人間が支援して作り上げるよりも、その土地に住む人たちが、生活の一部として、自分たちがワクワクすることをベースにやっていくやりかたが、結果的に良いものができるし、持続していくものになると思っています。

なので、これからも、浪江町の住民として、コミュニティづくりは続けていきますが、生業としては、多くの人が浪江で暮らしていくことができるようにするためにも、今やっている農業や、それと連動した加工品開発、飲食店経営などを中心にしたいと思うようになりました。

 

(道の駅なみえのラ―メンとカレ―、店長が修行の末つくり上げた渾身の一杯)

 

――それで会社を立ち上げたんでしょうか?

そうです。コミュニティづくりの仕事は、月1人生きていく分くらいのお金しか稼げないので、今後新しく人を呼び込むときの経済的なモデルを示すことができないと思っていました。それで始めたのが農業です。ただ農業もすごくお金になるわけではなく、1年かけて作ったとして、その1年間お金が入らないのでは食べていけないと感じていて、なにか良い方法はないかと考えていました。ちょうど、その頃、浪江の道の駅を作るときのコーディネーターをやっていた廣田さんにお会いして、道の駅で飲食店をつくらないかという話が持ち上がりました。新しいビジネスの形を探していたので、まずは道の駅で飲食店をやるということを決めて会社を作ったのが去年(2020年)です。

 

――会社を作るにあたり迷いや不安はなかったんですか?

そうですね。あんまり迷いとか不安はなかったです。やっぱり経済を回すにはちゃんとした会社を作って人を雇ってやっていかないと、本当に若い人は定着していかないと思っていて。廣田さんとも、やるんだったら地域経済を活性化していくことをやらないといけないというところと、そのために会社っていうのは大事だよねというところで意気投合していたので、あまり迷いはなかったです。それからすぐに会社をつくろうということで、中身もほぼ何も決まってない株式会社を立ち上げて、同級生2人を誘ったら、社員として働いてくれることになり、何とかなるんだなぁという感じです。

 

(道の駅なみえ「麺処 ひろ田製粉所」の店長と和泉さん。和泉さんはホームレス時代にこの店長の家で生活していた)

 

――ここまでお話を伺ってきて、和泉さん自身がすごく苦労されているのにも関わらず、すごく人のため、町のためという気持ちが強いなと感じます。そうやって自然に思えているのは、どうしてなんですか?

やっぱり自分が変われたのは助けられたからというのがあって。
今の時代の人たちは、目の前のことだけ、生きていくことだけで精一杯なんですよね。東京とかに行くと余計そうで、上京した時はみんな人に無関心だし、つながりも全然ないなと感じていました。その頃は自分自身、人が困っていても助ける体力はないし、人のことより自分のこと、という感じでした。そんな時に、恩人の池座さんに助けてもらい、人が人に与える影響力はとても大きいと感じました。自分も影響を受けて救われたので、自分が助けることができる人も絶対いるなと思ったんです。それと、池座さんの背中から、人のために尽くすと自分に利益が返ってくるということを学びましたね。 

    

――今後挑戦していきたいことは何ですか?

そうですね。自分が米が好きなので、農業の基本として米を勉強したいというのはあります。畜産に関しては、エゴマでオリジナルのブランドを作りたいと思っています。エゴマをエサに混ぜて、鶏だったらエゴマ鶏、羊だったらエゴマ羊とかをやってみたいです。
それと、エゴマは健康食品とかオーガニックとか、そういう業界で売れているものなので、一般的なニーズを広げたいと思っています。数年に1回のブームではなく、生活の中に根付くような商品を作りたいです。韓国では、エゴマの葉っぱのキムチなんかも日常的に食べられているものなので、いろいろな可能性があります。

いずれは、エゴマでフェラーリ買ったり、家を建てられたりできると良いですね(笑) 作物として全国に販路を拡げていって、エゴマ御殿を建てるという夢もあります。

 

――最後に、浪江町に対する想いをお願いします。

「町のために何かしなければならない」みたいな過度なプレッシャーは背負ってないですけど、一生懸命自分のやりたいことをやって、それが浪江町全体の発展につながっていけばと思っています。やっぱり財政的には浪江町は貧乏なので、未来のことを考えると不安なことはたくさんありますが、行政の皆さんも町づくりを一生懸命やっていて、活性化していくという兆しは感じます。

理想としては、子供たちがこの町に残りたい、この町で大人になりたいと思えるような、未来がみえるものをつくっていきたいと思っています。それは、例えば駄菓子屋みたいなものだったり、通いたいと思える高校だったり。そういうものを、自分たちの代でつくっていかなきゃいけないんだなっていうのは思っています。それと、この町には自分のような20代から30代くらいの世代がすぽっと抜けているので、数少ない30代の住民として、その代がどんどん増えていく仕組みづくりをこの10年でしていければと思っています。
浪江に興味をもってくださる方がいればぜひ連絡ください。僕でよければ、案内しますので。エゴマの農作業体験もウェルカムです! コロナになる前は収穫祭とかもやっていたので、 落ち着いたらぜひ。お待ちしています。若い子にどんどん来てもらって、町のことを知ってもらいたいですね。

 

 

編集後記
和泉さんのエネルギッシュなお人柄や、浪江町への想いの強さが感じられるインタビューでした。浪江町の「エゴマ」が福島県を代表する特産品として、全国的に名が知られる日も近いなと感じました。ありがとうございました。

【和泉さんよりご案内】
10/23(土)24(日)にえごまの収穫を手刈りで行います!
そこでその日空いてるよ、農作業してみたい、和泉を手伝い理由は何でもいいけど来てみたいと言う方いらっしゃいましたらお力をお貸しください!
作業は刈り倒したえごまを集めて青空の下ブルーシートの上で叩きまくる、ストレス発散にもなるとても楽しい作業です!

持ち物
・汚れてもいい服
・長靴か汚れてもいい靴
・手袋(軍手もあり)
報酬
・美味しいオヤツ
・美味しいお昼
・収穫してもらったえごま油(後日発送)

小雨結構、ザーザー雨中止、当日朝判断

希望者は、10月21日(木)までに、以下のフォームからお問い合わせください。

https://thebase.in/inquiry/namiefarm-base-shop
※注文IDは不要です。

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