自分の利益最優先の20歳社長が、誰よりも地域を想いピーナッツを栽培するようになったワケ

よみもの

福島県会津地方の新たな名物として「ピーナッツ」が生産量を伸ばしている ことをご存じでしょうか?その仕掛人は、株式会社オクヤピーナッツジャパン代表取締役松崎健太郎さん。弱冠20歳で結婚から起業までを経験した波乱万丈の人生ドラマ、そして、ピーナッツを通してつくりたい未来についてお話を伺いました。

(聞き手:小笠原隼人 編集:金舞幸、髙田優花)

 

松崎健太郎(Matsuzaki Kentarou)

福島県喜多方市出身。豆菓子専門店「株式会社おくや」を昨年分社化し、ピーナッツ栽培を事業の主とする「株式会社オクヤピーナッツジャパン」を設立。会津産のピーナッツを新たな名物とするべく特産品とのコラボも積極的に行っている。また、会津障がい者雇用促進連絡協議会 監査も務め、障がい者の方の雇用の促進に力を入れている。

 

――そもそも、なぜ「豆」を売ろうと思ったのですか?

 

実は起業した25年前、自分が21歳の時はいわゆるなんでも屋さんとして会社を興したんです。その御用聞きのひとつが「豆を売る仕事」でした。

起業のきっかけは、小学校の卒業アルバムです。20歳で結婚し、地元に戻ってきて仕事を探しているとき、昔の自分は何を夢にしていたのかと気になってアルバムをめくったら、そこには「社長になりたい」と書いてありました。

(実際の小学校の卒業アルバム)

とても単純ですが、そのときに「俺は社長になるんだ!」と決意したんです。名刺を100枚刷って、いろいろなところに配って回りました。元手はなかったので、例えばペンキ塗りとか、山の方に配達に行くとか、誰もやりたがらないような身体を使った仕事を請け負って手数料をもらっていました。起業してから他にも古着屋をやったり、赤べこ販売の専門店をやったり、いろいろな仕事をやりました。でも、成功したと思ったら失敗しての繰り返し。古着屋の時は、起動に乗った頃、先物仕入れの資金の回し方が解らず泣く泣く閉店に追い込まれたり、赤べこ屋の時は経営が軌道に乗ってきた途端、そこのテナントを貸していただいた方に「自分のところで赤べこ屋さんをやるから出て行ってくれ」と言われて泣く泣く店をたたんだり、いろんなことがありました。

(古着屋経営時代の松崎さん)

( 創業当初の松崎さんと娘さん)

そんなふうにいろいろな方から御用聞きを受けている中で、農家さんともたくさん知り合いました。あるとき一軒の農家さんに「うちの黒豆を町で売ってきてくれないか」と相談されて、その豆を問屋さんに売ったのが「豆屋」の始まりです。そのあとも、農家さんから豆を買って、問屋さんに売るというようなことを続けていました。ある年、豆が前年より豊作で価格が落ちて、今まで買っていた価格より安く買わないといけないときがありました。農家さんは同じ仕事をしているのにも関わらず、前年より安く買わないといけないことを心苦しく思って、つい前年と同じ値段で豆を買ってしまいました。そうすると、もちろん自分が損するわけで(笑)奥さんに怒られましたね。買ってきた豆を奥さんが煮豆にしてくれたので、それを道の駅の前で売ってみたんです。すると1パック500円、20パックで1万円の煮豆が、なんと30分くらいで売りきれてしまいました。「これなら、農家さんから安い値段で豆を買いたたかなくても何とかなるかもしれない」と感じて、その年の豆の相場より高い値段で豆を買う、と農家さんに伝えて回りました。集まった豆の量はなんと2トンほど! ちょっと買いすぎたかなぁと思ったのですが、そこから豆を使った商品を考え始めることになりました。豆を売るようになったきっかけは、こうした一連の出来事 です。ただ、この時点では、まだ自分が「豆屋」であるという自覚はなかったですね。

 

自分が「豆屋」なんだという自覚が芽生えたのは、創業10年目くらいの頃、福島同友会という組織に入ったことを契機に自社の経営指針をつくろうとしたときです。その時に相談した方から、「君の話を聞いていると、君の物語って豆屋さんだよね」と言われて、確かに、振り返ると俺は「豆屋」なのかもしれないなと思いました。それで、他の仕事を全部やめ、豆一本でやっていこうと決めました。豆を専門として売る会社は珍しく、価格競争する相手もいないのが幸いでした。農家さんとも繋がっているし、加工して付加価値をつけることも覚えた頃だったので、31歳の時に豆屋を法人化して株式会社おくやをはじめました。

(おくや創業当初本社前でのお写真)

 

――経営理念はどんな気持ちでつくったのですか?

起業してから10年間の自分は本当に利己的で、最初につくった経営理念は「自分が一番儲ける」とか、利己の塊みたいなものでした。でも、この経営理念では誰も応援してくれないなと思って。よく考えてみると、自分が一番儲けようと思ってやっている仕事であっても、実際には人のためになっていてみんなが喜んでくれているもので、「お役立ちした対価を僕はもらってたんだ」と改めて気が付いたんですよ。利己でやっていたつもりだけど実はいろんな貢献もあって、いろんな感謝をされていた。けど自分自身でそれに気づいてなかったから、仕事をいただいていることに感謝できなかったんですよね。その時に、これは利己じゃだめだ、利他だという風に思考の切り替えがありました。

(公式サイトに掲載している「五方よし」の考え方と経営理念「豆商いの3つの心」)

僕は「ビジネス」と「商い」を別のものだと捉えています 。「ビジネス」は利益の追求を目指すもの。一方で、「商い」というのはお役立ちした対価をもらうものだと思っています。一方的に自分の利益を追求する「ビジネス」だけではなくて、お客様のためを思う「商い」をやっているんだという気持ちが大事だと思っています。それを胸に刻んで事業を進めていったら、結果としていろんな人に応援してもらえました。振り返ればこれまで、失敗したときは必ず自分本位な態度を見せて調子に乗っていたんでしょうね。30代になってからは、少しずつですが、利他の気持ちを大切にしたり、人への感謝をしたりということができるようになってきたという感じです。

 

(講演会などで使っているこれまでの歩み)

 

――豆屋として成功されている中で、特にピーナッツに力を入れた背景は何だったんですか?

20代のときに大阪から来た商人の人に、質問されたんですよ。「会津には資源がありますか?」って。そのときに、僕は「なんもないっすよ」って言ってしまって。そしたら、その方に「可哀想ですの」という風に返されました。「会津にはいい水があって、いい土があって、観光資源もあって、温泉もあるのに、それで『なんもない』って言ってたら、あなたどこに行っても商いできませんよ」って言われて、恥ずかしくなりました。盆地ならではの、こもってしまっているという部分はあるけれど、会津は資源だらけで、空き農地も資源だし、空き家も資源だし、空き商店街も資源だし、いっぱいあると思い直したんです。それで、空き農地にピーナッツを植えたら本当の資源になるんじゃないかと思い始めました。

うちのピーナッツは会津の授産施設の方々が冬に一つ一つ丁寧に手剥きしてくださっています。機械で剝くより丁寧なピーナッツを売ることができるし、結果的に授産施設の方の雇用にもつながります。会津に「ピーナッツ栽培」という新たな産業ができれば仕事もできますし、それを目当てにやってくる観光客の方も増えます。地域にも自分にもメリットのあることだと考え、ピーナッツ栽培を始動しました。

――ピーナッツ栽培を始められてからどんなことで苦労されましたか?

最初は栽培の仕方が全然わからなかったので、千葉に栽培方法を学びに行きました。千葉ではピーナッツを乾燥させるときに、畑にかまくらみたいなものをつくって干すのが一般的なのですが、会津でそれをやってみたら雨ばかりで、全部枯れてしまいました。千葉はからっ風が吹いて、11月でもまだまだ暖かいので大丈夫なんですが、会津の気候では無理がありましたね。その土地に合うつくり方を考えなくちゃいけないと感じて、ハウスに干してみようかとか、いろんな工夫を毎年重ねていって、会津で作れるやり方を一つずつ試しました。壁にぶつかったらだめだじゃなくて、壁を乗り越えれば武器になるっていう考え方で解決して、「会津流」をつくっていこうと思っていました。

(ピーナッツ畑の前で) 

また、100%会津産にするために、契約団体の「会津豆クラブ」というのもつくりました。農業で必要な機械を全部買うとなると大変なんですけど、クラブとして共同購入したりして、農家さんがリスクを背負いすぎずに、安定して収入を得る仕組みを整えています。契約してくださっている農家さんも70ほどになり、ありがたく思っています。

 (会津豆クラブのみなさんと)

 (ピーナッツの乾燥・焙煎などを行う施設ピーナッツセンター、コメ袋の中や積みあがった大量のコンテナの中にピーナッツが入っている。)

(豆クラブメンバーが共同で使える機械)

 

――授産施設とのつながりをはじめ「農福連携 」に力を入れているとお聞きしましたが、大切にしていることはありますか?

 

きっかけは、会津の支援学校に行ったことでした。一般の高校よりも社会に出る勉強をたくさんしていて、サービスの試験に取り組む子、パソコンの打ち込みの勉強をしている子、農業に取り組む子もいて、すごいなと思ったんです。でも、こんなに勉強している子たちの就職率がすごく低いということを聞いて、自分のところで受け入れることを考え始めました。普通のインターンシップは長くて2~3日だと思うんですけど、支援学校は2週間単位で子どもたちを送り出してくれます。長期間の受け入れは大変だけど、来てくれた子の人となりもわかるし、その子たちの仕事への理解も深まります。そうした受け入れを2年間くらい続けて、自分たち受け入れ側も障がいを持つ子たちとの付き合い方をつかめてきたので、新卒採用に踏み切りました。初めて採用した子は通称「わっしー」といって、今では東北で1、2を争うピーナッツ焙煎職人に成長してくれています。

 (松崎さんとわっしーさん、奥にある機械が焙煎機、わっしーさんはこれまでの経験から豆の焙煎の度合いを見極めて焙煎時間を変えている)

農福連携で特に大切にしていることは、福祉施設と連携する場合は普通の2倍、3倍の時間をかけて工夫することですね。例えば「シールは真っ直ぐに貼ってね」って言っても曲がっちゃうこともある。けれど、ガイドになる板をつけてあげれば真っすぐに貼れるようになるんですよね。そういう工夫をお互いにしていくことが必要だと思います。支援学校の先生にもその作業を理解してもらうためにコミュニケーションをとっていけば、うまくいかないってことはないと思います。仕事を始めて1、2年もすると、いないと困る人達に変貌していってくれます。

(ピーナッツの殻を剥く仕事中の授産施設の方々)

――今後のオクヤピーナッツジャパンの展望についてお聞かせください。

喜多方の熱塩にピーナッツセンターがあるので、その脇にピーナッツカフェや体験農場をつくって、「村民」を募集して「ピーナッツ村」にしたいと思っています。土日はピーナッツ畑の作業体験をして、カフェでゆっくりしてもらって、熱塩の温泉にも入ってもらう。「村民カード」を持っていれば、熱塩地域内の食堂でも特典が受けられる。それが「ピーナッツ村構想」です。熱塩の温泉にも人を呼ぶことができ、地域のニーズに応えられます。ピーナッツ村でも障がい者雇用をつくっていきたいと考えています。畑の管理や工場での作業をお任せしたいですね。福島市には盲学校があって、あんまを覚えている子たちもいるのでその子たちにピーナッツあんま場みたいなのをやってもらうのもおもしろそうですね。

(ピーナッツ村の建設予定地の前に立つ松崎さん)

( ピーナッツ村のイメージ画像)

また、連携型6次産業化にも力を入れていきたいと思っています。味噌(大豆)を例にすると、農家さんは大豆を売って儲けて、味噌屋さんは大豆を加工して儲けて、道の駅は販売手数料で儲ける。合体させてコラボさせれば、いろんな人の仕事に繋がると思います。道の駅で売ると決めたなら、駅長さんも商品開発に呼んだりして、一緒になって一つの商品をつくることが必要だと思います。全部自分でやっちゃうと、こっそり生まれた商品、ポツンと誰にも認められない商品ができちゃうので、連携型6次産業化を通して仲間がいる環境で、みんなに応援してもらえる商品をどんどん生み出せたらいいなと思います。

これまでも、喜多方の「ピーナッツ担々麺」を開発したり、近くのお菓子屋さんとのコラボでピーナッツの生クリーム大福をつくったり、「ピーナッツソースカツ丼」を誕生させたりしてきました。今後は会津だけでなく、東北全体でいろいろなコラボをしていくのも楽しみです。

(会津ピーナッツ味噌)

(ピーナッツ担々麺)

〈編集後記〉
「利己ではなく利他」という信念をもっているからこそ、多くの人が松崎さんのもとに集うのだなと感じました。松崎さんから広がった「あなたのために」という気持ちが広がって、会津がもっと元気になる未来がみえてくるようなインタビューでした。ありがとうございました。

 

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