まだ枯れ木が寒々とした2月。ピンクのアイシャドウが丸く笑うと、まるで梅の花が咲いたようだった。女性のデリケートゾーンケア化粧品の企画・販売などを行う、福島県国見町の「株式会社陽と人(ひとびと)代表」・小林味愛(みあい)さん(35)。子育てをしながら、現在は東京都立川市との二拠点生活を送っている。低い日差しに気持ちよさそうに身体を預け、ときおり大きく身を乗り出して弁を振るう。強く、優しく、論理的に、感情的に——。さまざまな温度を持つ魅力的な語り口で、福島との出合い、ものづくり、そして彼女が目指す社会についてお話しいただいた。
——キャリアは公務員からスタートされたとか?
純粋に「社会の役に立ちたい」という思いで、大学卒業後は衆議院事務局で勤め始めました。いわゆる「国家公務員」です。しばらくして経済産業省へ出向になって、死ぬほど働いたんです、私。ひと月の残業時間が300時間を超えていたこともあったし、土日なんていう概念もなかった。オフィスの床に段ボールを敷いて寝て、シャワールームも男性用しかないからトイレの冷たい手洗い水で顔を洗ったり。それが初めての社会人経験だったから当たり前だと思って疑いもしなかった。
就職して1年後、東日本大震災が発生。職場では日本中の番組が放映されているんだけど、何台ものテレビが全部津波や地震の映像であふれてた……。東北が大変なことになっているのに、数日もすると東京では日常が始まって、「こういうときに役に立つために公務員になったのに、私、何の役にも立てていない!」って思った。当然、震災関連の業務はあったけど、私にはどれもやってもやらなくてもいいような仕事に見えた。
その夏、休みをとって宮城県石巻市に行った。津波で壊された学校の瓦礫処理のボランティアをしたんだけど、そこで倒れちゃったの。瓦礫撤去に体力は使うし、炎天下での作業だったというのもあるけど、写真とか遺品がたくさん出てきて……この場でたくさんの方が亡くなったんだって思うと耐えられなかった。役に立ちたいという思いだけで突っ走ると逆に迷惑をかけてしまう、自分のできることが分かってから来たいと思った。
公務員になって5年、仕事もひと通りのことが分かってきた頃。大事な仕事や尊敬する先輩もいたけど、求められることは“ロジカルな資料”を作ることだった。みんな頭が良くて、論理に隙がない。読めば「確かにな」と思う。だけど、そこに心が感じられなかった。仕事相手はもっぱらパソコン。一人でもいいから人に触れたい、目の前の人に関わる仕事がしたいと思って辞めました。
——次のキャリアは?
転職したのは大手のコンサルティング会社。数あるコンサルティング会社の中でも「現場に行ける」というのが売りだったんです。全国各地の市町村から委託されて、観光や商品開発、農業、規制緩和など……さまざまな分野を担当しました。確かに“現場”にはよく行ったけど、やってることに本質がなかった。つまりさ、地方のためと言いながらひと月何十万円、何百万円も地方自治体からお金をもらって東京の会社が儲かる仕組みでしょ。会社は「社会的に意味のあるプロジェクトかどうか」よりも「どれだけお金を引っ張ってこられるか」が大事で、同じ方法を横展開して効率よく稼ぐことが奨励されていた。自分の単価が高いことも受け入れ難かった。地方に行くと、町の人たちの真剣さや苦しみに触れるの。震災で娘を亡くしたけど、「この町のために」って頑張っている役場の職員の方もいた。そんな人たちのお金が私の給料の原資だから、詐欺を働いているような気さえした。給与明細を見るたびに「私、この仕事でこんなにもらうの?!」って思った。働けば働くほど私の生活はどんどん豊かになって、しまいにはストレスや葛藤を発散させるためにブランドの服を「こっからここまで」って買うようになってた。でも、あのときほど生きていて虚しかったことはない。「このお金ってなんなの?お金なんかいらない!」って耐えられなくなっちゃった。
気付いたら、「生きるってなんだろう」って考えてた。お金があっても虚しいだけ、社会のためにもならない、自分のためにもならない仕事。「社会にとって私はいらない存在なんじゃないか……」。頭にはずっと十円ハゲがあって、隠すために髪の毛は切れなかった。生理(月経)も全然来ないし。お酒を飲まないと虚しくて眠れなくて、毎日一升瓶を空けて、二日酔いのまま出社したり。ホント、狂ってた。吐血して、精神的にも限界で、結局3年勤めて辞めた。その後、2ヶ月の無職の期間は「好きなところに行こう!」と思って、訪れたのが福島県の国見町。これが会社設立のきっかけになりました。
福島県国見町の様子。
——なぜ国見町だったんでしょうか?
コンサルティングの会社では国見町も含めてたくさんの地域とお付き合いがあったけど、なぜだか国見が好きなんだよね。震災以降、福島のために何かしたいという気持ちもあったけど、理屈抜きに好き。なんとなく肩の力が抜けるというか……。大企業みたいに大きなことはできないけど、町のたった一人の人が喜んでくれるようなことがしたい。そう思って会社を立ち上げました。立派な事業計画なんかなくて、何をするかも決めてなかったから会社の定款には可能性のあることは全部書いた。「旅館業」なんてのも入ってるぐらい。昔、石巻で感じた「自分の思いだけで突っ走ってもうまくいかない」という反省を生かして、まずは地域に必要なことを探すことから始めた。
果樹農家さんの手伝いに行ったりしたけど、最初は追い返されることもあった。いきなり東京から来てワンピースにハイヒールの銀座ばりの格好して行ってたんだから、そりゃ怪しいよね。でも話していくうちに仲良くなって、生産の過程で傷や色むらがある果物がたくさん出ることを知った。特に国見は桃の生産量が多いから、桃のB品を流通させる事業から始めました。
国見町を含む伊達郡は「あんぽ柿」発祥の地でもあるんです。「あんぽ柿」は渋柿の皮を剥いて硫黄で燻蒸した干し柿のことで、震災後は特に風評被害で価格が低迷していた。あんぽ柿の農家さんと話していると、コンテナいっぱいになった柿の皮を「畑に捨ててこい」って言われて。重いのよ、これがまた。「全部捨てんの?」と聞いたら「全部だ。捨てなきゃ何にする?」って。帰って文献や論文を調べると、渋柿には「カキタンニン」という、シブの主成分であるポリフェノールが含まれていることが分かった。さらに柿の皮について実験してみると、皮は他の部分に比べてカキタンニンの濃度が3倍も高かった。柿シブは古くから石鹸や歯磨き粉などとして使われていて、肌の引き締めやニオイケアの作用がある。宝物みたいな農産物でしょ!「これを原料にして商品開発をしよう!」ということになったわけ。
化粧品の原料となる渋柿の皮。
——「デリケートゾーンケア」とどう結びついていくのでしょう?
単に売れるもの、話題になるものではなくて、「社会に対して本当に必要なもの」を作りたいと思ったの。ヒントはこれまでの社会人経験にあった。私が就職したときってちょうど、「女性の活躍」が声高に言われ始めたころで、管理職に占める女性の割合なんかが話題に上っていた。だけど同期や上司の女性たちと話すと、明らかに無理していて、多くの人が生理不順だった。先輩の女性が妊娠の報告をしたとき、その場では「おめでとう!」って周りは言うんだけど、彼女がいなくなると「だから30代の女って使えねーよな」って平気で言うの。女性活躍の名の下で、長時間労働が当たり前、男性と同じように働くことを求められる。体調が悪くても男性中心の職場だから女性は声を上げられず、無理をして働いて、不妊など取り返しのつかないことになる。「それっておかしい」ってずーっと思ってた。
私も身体に相当負担をかけていたみたいで、毎月のようにカンジダ症になってた。バレないようにランチのフリをしてタクシーに飛び乗って、病院で薬だけもらって帰ってくるということを繰り返してた。当時は知らなかったんだけど、女性のデリケートゾーンには500種類もの菌が住んでいて、雑菌が体内に入らないように働いてくれている。菌のバランスが崩れると、カンジダ症などの痒み、おりもの、におい、違和感が出てくる。菌のバランスがなぜ崩れるかと言うと、寝不足、ストレス、食生活などの生活習慣の乱れなんだよね。つまり、デリケートゾーンは自分の身体のバロメーターになる。1日10秒でもいいから、ケアをしていれば異常に気付いて「来週休み取ろうかな」って選択できる。そんな想いと柿の皮がつながってデリケートゾーンケア化粧品「明日 わたしは柿の木にのぼる」が生まれた。社会が変わるのは時間がかかる。だからまずは女性自身が自分の身体を大事にしてほしい。
——ブランド名の「明日 わたしは柿の木にのぼる」って、とっても変わってますよね?
商品名を考えるときに、いろんな人に「長い名前の商品は売れない。英語で、短くてオシャレなものがいい」とアドバイスいただいたんだけど……。私、カッコ良くてオシャレな人間じゃないし……(笑)。
日本社会って何かと“正解”が設定されているように感じる。こういう学歴があってこういう社歴があると「正解」みたいな。さらに女性は結婚して子どもを産んだら、「良妻賢母でキャリアウーマン」という正解を押し付けられ、外れると異端視される。でもそれって苦しくない?もっと自分でいい、もっと自由でいい。「木に登る自由がわたしにはある」そんなことを社会に言いたかった。
「明日 わたしは柿の木にのぼる」商品ラインナップ。
——フェミニンウォッシュとオイルを使ってみました。使い心地が本当に良くて、思わず顔にも使いたくなりました。
あ、ぜひぜひ。顔にも使ってください。赤ちゃんの肌にも使えます。原料は国見の柿の皮の他に、ローズマリー葉水やホホバ種子油、マカデミア種子油など、すべて天然由来成分だけで作りました。私自身、幼い頃はひどいアトピーだったこともあって、とにかく刺激の少ない良いものだけを選びました。商品は佐賀県唐津市の工場で製造しているんですが、この会社では障がいのある方が働く作業所と連携したり、再生可能エネルギーだけを使ったりしている。そんな工場は他にはない。柿の皮を使うので国見の農家さんのためになるのはもちろんだけど、商品が売れることでちょっとでも良い影響が社会に波及するようにと考えています。
化粧品業界の人が原料を見たら、「原価ヤバイ!」って思われるでしょうね。今の世の中、“モノを売る”となると、ものづくりよりも広告やマーケティングといった「見せ方」ばかりが優先される風潮がある。たとえ見せ方がうまくて売れたとしても、中身がなければ人を騙しているようなもの。私は人を騙して売りたいわけじゃないし、誰も騙されたくないでしょ?だから自分が本当に使いたいもの、嘘のないものを作りたかった。その上でしっかり伝えていくという順番。おかげで開発に3年もかかりました。国見という土地のパワーもあるかな。国見の農家さんたちのものづくりは嘘がなくて、誠実で。そういう土地だから生み出せた商品だと思います。
国見町の柿農家さん。
——味愛さんご自身の結婚、ご出産について聞かせてください
25歳のときに結婚して、仕事を辞めた翌年の31歳で出産しました。東京時代は周りの働くお母さんたちが本当に大変そうだったから、子どもなんか欲しいと思ったことなかった。国見に行ったら聞かれるわけよ、「子どもまだか?」って。「いらないっすよ」って言ったら、「何のために働いてるんだ?」って。「それ、面白い問いっすね……」って考えてたら、「子は宝、それだけ!」。私、震えちゃって。それまで働き詰めだったから、仕事以外の“人間の生きる喜び”みたいな価値観があるんだ、と。「でも、子育てって大変じゃないですか?」と聞くと、「育てるんじゃないの、育つんだ!」と言われてまたハッとして。子育てって“深刻な懸念事項”だと思ってたんですが、そんな感覚でいいんだ、育つんだ……と思うと欲しくなっちゃった。その後、すぐに授かりました。仕事を辞めてからカンジダも生理不順もまるっきり良くなっていたので、身体のタイミングもよかったんだと思います。
うちは夫が育休を1年間取って、近くに住む両親が手伝ってくれるのですっごく助かっています。子どもと一緒にいると、自分がいかに凝り固まっているか思い知らされる。例えば道端でタンポポを見つけたとき、私はただのタンポポだと思って気にも留めないけど、子どもには“タンポポ”の概念がないから、「黄色い雪」って言ったの。「あぁ新しい概念ってこうやって生まれるんだ!」って感動した。普段、私たちは既存の概念や言葉にどれだけとらわれているか。こういう視点が地域活性や商品開発には必要です。
夫と3歳の娘さんと。
——化粧品の製造販売だけではなく、さまざまな活動もされていますね?
女性の健康課題についての普及・啓発をしています。最近では、「はたらく女性の心と身体FACTBOOK〜未来のわたしに、今のわたしができること〜」という小冊子を制作しました。働く女性たちの声(VOICE)を集めて、事実(FACT)はどうなっているのか、対処するための選択肢(CHOICE)にはどんなものがあるのかという情報をまとめたもので、無償で配っています。
それから面白いのは企業や自治体での研修・講演。「組織での女性活躍」について話してほしいって頼まれるんだけど、通り一遍のことだとつまんないでしょ。こないだはある地方自治体の役場で、50〜60代の男性たち相手に生理の話をしてきたの。「生理って知ってます?」と言うと、目をまん丸くして。終了後のアンケートには「カァちゃん(妻)がこんなに大変だとは思わなかった。今はもう閉経していて遅いけど大切にしようと思う」とあったりね。自治体の人が女性の身体について正しく知ることはとても大事。なぜなら市内に産婦人科がない地域なんてざらにあるけど、みんなそれが大問題だって思ってない。妊婦さんたちは車で2時間もかけて通ってるのに!せめてオンラインでいつでも相談できるようなサービスを導入するとか、自治体ができることはたくさんある。女性にとっては最低限の社会インフラだから、整えることで移住・定住にもつながる。
FACTBOOK
——今後やっていきたいことを教えてください。
地域には価値になっていない資源がたくさんある。そこに女性の目線を加えたら、イノベーションが起きる。これからもまだまだ起こせると思っています。新商品も含めて、イノベーションにつながる事例を生み出していきたい。いわば地域活性化と女性活躍の両立ですね。地域を活性化するだけじゃなく、“本当の意味で”女性が活躍できる社会を作っていきたい。
日本のジェンダーギャップの大きさは世界156カ国中120位で、ギャップを解消するにはなんと135.6年もかかると試算されてる。135年後、私は生きてない。でもあきらめないで、私にできることをできるところまでやりたい。それが次の世代のタネになるから。
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力強く語ると、パクリといちごのショートケーキを頬張った。クルリと丸い目が踊る。男性的とも女性的とも、起業家っぽいともママらしいとも表現しきれない。彼女はとても彼女らしくて、とても自由だった。
(インタビュー・文:成影沙紀、写真はすべて(株)陽と人 提供)