大野村農園 / 菊地将兵
福島県相馬市出身。農家を志し農家研修を受けた直後、東日本大震災後が起こり、地元にUターンして大野村農園を開園。ブロッコリーやレタスを中心とした20種類の野菜や相馬伝統野菜「相馬土垂」を育てつつ、自然卵の販売も行う。平飼いで可能な限り自然に近い環境で育て、相馬のお米と野菜をいっぱい食べた鶏の卵「相馬ミルキーエッグ」はふくしま産業賞金賞を受賞した。また、相馬ミルキーエッグ1パックが売れるごとに30円が国内の母子家庭や父子家庭に寄付されるといった、貧困への支援も行っている。生産物を作品として磨き上げること、農業を通して人間性を鍛えられたという自身の経験から、「農業=伝統を受け継ぐ職人」というポジションの確立を目指している。
■高校を辞めてやることもお金もなくてばあちゃん家の畑に通った。
僕は、父さんがいなくて、母さん一人じゃ育てられないから、小さい頃に施設に入れられていたかもしれなかったんですよ。だけど、ばあちゃんが「私が育てるから」って母さんに言ってくれて、中学まではばあちゃんとじいちゃんに育てられました。中学になってからは、母さんと兄ちゃんとアパートで暮らすようになりました。
母親に「行け」と言われて高校に入学しましたが、やっぱり面倒くさくて、遊んでいるほうが楽しくて16歳で高校を辞めました。でも、学校を辞めた人は分かると思いますけど、16歳で学校辞めるってきついですよ。周りの友達は皆学校に行くわけですよ。僕は学校に行きたくなくて行かなかったわけですけど、学校に行かないと他にやれることがないんですよね。母親には、「外に出るな。平日に16歳が外を歩いているのが、恥ずかしい。」って言われてました。
基本的に、昼夜逆転した生活でしたね。だけど、いつまでも家で寝てられないって思ったとき、日中なんとなく向かうのってばあちゃん家なんです。いつもばあちゃん家まで歩いて1時間かけて行っていました。当時は、遊ぶ金が欲しくて、ばあちゃんにお金を貰おうとするんですけど、「働いてるやつじゃねえと金はあげねえ、6時から畑手伝え」って言われました。朝6時にばあちゃんの家に行ったとき、ばあちゃんに「6時からって言われて、6時ちょうどに来るバカがいっか! もっと早く来い」って怒られたりしてましたね。そんなこんなで、週に1回は、畑に行く生活をしていました。
この先、どうするかも決めていなかったのですが、たまたま、その頃、夜中に放送していた「花田少年史」っていうアニメを見ました。そのアニメがすごく良くて、刺激を受けて、数ヶ月、家にこもって絵を描いたんです。それで、母さんに「俺、漫画の学校行きたいんだけど」って言いました。そしたら「いいよ」って言ってもらえて、18歳から仙台の学校まで電車で通うようになりました。
卒業後は、もっと絵を描き続けたいと思って、仙台で派遣のアルバイトをしながら友だちとルームシェアして絵を描く生活をしていました。そのときに、社会に出てからの貧困も経験しました。派遣会社から「今日は仕事はないです」って電話があると、「財布に200円しかないけど、どうするよ」って友達とよく話していましたね。路上生活をする手前みたいな状態でした。本当に安い酒を毎日飲んで、「大丈夫かよ俺ら…… でも毎日楽しいな」って言いながら過ごしていましたね。
■貧困に苦しむ人の実情を知りたい。万引きGメンとホームレス支援を通じて学んだこと。
そうやってろくでもない生活をしていた21歳の頃、ひいばあちゃんが倒れました。ひいばあちゃんは、僕が学校を辞めても怒らなかった唯一の人で、高校をやめてから週1回、ばあちゃん家に通っていた時、じいちゃんばあちゃんは働いてからあまり相手してもらえなかったんですが、ひいばあちゃんにはすごいかわいがってもらえて、一緒に座ってお茶飲んだりしてるだけなんですけど、すごいよくて。また来ようって思えました。そのひいばあちゃんが危篤で目も見えないときに病院に見舞いにいったら、かろうじて意識が戻って最期の言葉で「将兵。あまりお母さんに迷惑かけないでくれ」って言われたんです…… それがあって、こんな生活じゃダメだ。やり直そうって思いました。
もう1回やり直そうと思ったとき、東京にいる兄ちゃんと一緒に暮らすことにしました。それで、自分自身がずっと貧困を経験していたのと、当時マザーテレサの本にはまっていたから、日本の貧困状況について現場で知るために『万引きGメン』として約1年間働きました。スーパーなんかで万引き犯を捕まえる仕事です。その仕事をしながら、都会の人は孤独感を感じている人が多くて、経済貧困より心の貧困が深刻であることを感じました。
例えば、どこにでもいそうな普通のおばちゃんが万引きをして逃げたのを、走って捕まえた時の話ですけど…… 捕まえて、その場でブルブル震えているおばちゃんが「すいませんけど、手を握ってくれませんか。」って言って、5分ぐらいずっと路上で僕の手を握るんです。その後、おばちゃんが落ち着いてからこんなことを言うんです。
「旦那がうつ病で働けないんです。私が目を離すと自殺してしまう…… 大学生の息子がいるのに、収入もなくなってしまいました。生活保護を受けにいったら、『あなたが働いてください』って言われてしまって…… でも、私が働いている間に旦那が自殺してしまう…… 友達に旦那がそういう状況だって言えなかったから、ずっと一人で抱え込むしかなくて苦しかった」
このおばちゃんもそうだし、都会は、親と縁を切って働いている人もいるから、そういう人たちが派遣でぎりぎりの生活をしている中で怪我をすると、あっという間に家賃も払えなくなって路上に出されてしまうんですよね。路上に出て最初の3日間はどうしていいか分からずうろうろしているけど、だんだん耐えられなくなって、物を盗んで食べる。万引きGメンをしながら、そういう人と出逢って、一人一人の話をじっくり聞きました。
その仕事をしながら、この人たちに足りないのは自分のことを気にかけて繋がってくれる、話を聞いてくれる人の存在だって思いました。僕の小さい頃は、経済的に貧困で、家の環境もあまり良くなかったけど、近所のおっちゃんたちが、「ジュースでも飲んで行け」とか「いつでも泊まりに来い」って言ってくれて、良くしてくれた思い出がいっぱいあります。家庭の中に居場所がなくても、生きやすいのが地方ですね。でも、最近は地方でもそういうのが薄れてきたなって感じる。僕らの世代がそういう居場所を創っていきたいですね。
■農家が本気出せば何百人でも助けられる。
ホームレス支援に力を入れて活動した時期もあって、池袋駅周辺の炊き出しに行っておにぎりを配っていました。でも、炊き出しの列に100人並んでいると、団体が用意したおにぎりが60~70個しかないときは、最後の方の人はチラシ配りと話しかけるだけで終わってしまうんです。そんなときは、ばあちゃんが僕のところに送ってくれたお米を、僕と兄が自宅でおにぎりに握って、配っていました。でも、助けたいと思ってもその場しのぎの対応になってしまい、どうしたら良いのか答えが見つからない感覚がありました。
そんなある日、炊き出しで岩手の農家さんが沢山の米を持ってきて「これを使ってくれ」って置いていったことがありました。その時に、「答えって農家じゃん」って思ったんです。だって、こういう風に農家が本気出せば、何百人でも助けられるのに、僕はばあちゃん家から送られた米でおにぎりを握っていただけ。何にもやってなかったと実感しました。それで、群馬県の農家さんに研修に行きました。それから、農業を初めて2年目に、できた野菜をホームレス支援の炊き出しに送れるようになりました。
(たくさんの人が訪れる菊地さんの家には、訪れた方の一筆書きが飾ってある )
■「楽なほうを選んだら、一生後悔する」震災直後に相馬で営農開始。
3年間、複数の農家さんで研修をして、就農場所は決めないまま、いったん東京に戻りました。そしたら、その2~3か月後に東日本大震災が起きて、その2ヶ月後に生まれ故郷の相馬に戻りました。研修を受けた農家さんの中に「今、福島に帰る必要はねえだろう、なんならこっちで畑用意するから新規就農したらどうだ」って言ってくれた人もいるのですが、楽な方を選んだら、一生後悔するなって思いましたね。相馬に戻って農業して、万が一放射能が出て引っ越すならいいけれど、挑みもしないで故郷を捨てるようなことは情けないなって思って、それで相馬に戻ることを決めました。
だけど、最初は全く売れなかったですね。作った野菜をスーパーの売場に並べているときに「中国産のほうが売れるよ」なんて当たり前に言われましたね。相馬の野菜が県外・国外の野菜と並べて少しでも高かったら100%売れなかったです。必ず2~3割は価格を落とさないと売れないっていう状況でした。その頃は本当に地獄でした。でも、始めたからにはやるしかないって決めていたので、やめたいとは思わなかったですね。
■「相馬のものは子どもにくわせらんねぇ」とはもう言わせない。相馬ミルキーエッグに込めた想い。
相馬に戻って3~4年間は、地域の人からも「悪いけど、お前の家のもの、相馬のものは子どもに食わせらんねえ。良いことしているのはわかるけどさ。」って言われてとても悔しい思いをしました。
それでも、助けたいっていう人はいて、そういう人は地元の相馬産の野菜を買ってくれていたんですけど、いつまでも助けたいなんて思わないはずなんですよね。「お前のとこのそれが欲しい」っていうものを生み出さないと絶対復興に繋がらないんです。
それで、自然卵養鶏法という手法を使った『相馬ミルキーエッグ』を作り始めました。一般的な養鶏場では、卵を生む身体に成長した鶏を買ってきて卵を採取するのですが、大野村農園ではヒヨコを生後2日目から育てています。それは、鶏の体の強さは「生後約1週間」で決まってしまうからです。鶏舎は、ケージを使わずに広くて明るく、動き回れる場所でストレスを感じさせないように育てています。 餌も、相馬産の米や、魚のアラなどを入れて発酵させた、自分で作ったオリジナルの餌を使っています。「相馬のものは要らない」って言われて悔しい思いをしたからこそ、『相馬ミルキーエッグ』の商品名は、意識して頭に『相馬』とつけました。10個で770円で販売しています。
※インタビュー後、相馬ミルキーエッグは、売上の1部を、国内の母子家庭、父子家庭、施設などの子供たちが中心の所へ食品に換えて寄付することとなり、価格が10個あたり830円となりました。
( 養鶏場で相馬ミルキーエッグを見せながらお話をされる菊地さん )
■相馬で伝統文化を守る職人的な生き方を広めたい。それってかっこいいじゃないですか。
僕の家では、相馬伝統野菜の「相馬土垂」(そうまどだれ)という里芋も作っています。相馬であれば、今までの伝統を背負ったり守ったりする生き方もできます。僕は、農業を職人にしたい、陶芸家とかそういうのに近い立ち位置で。
伝統とか文化とかそういったものに対して実はみんな興味あるんじゃないかと思っていて。繋がるきっかけもやるきっかけもなかったからやらなかっただけで、それを本当に職業にできるんだったらやってみたいっていう若い世代はいるはずなんですよね。「俺は伝統文化を守ってるんだ」っていうのをしっかり形にして見せられたらかっこいいじゃないですか。
( 相馬伝統野菜の相馬土垂が育つ菊地さんの畑 )
■困りごとを抱えた人の居場所としての農家。与えられる側から与える側へ。
僕自身も3年間、いろんな農家に受け入れてもらって、自分の人間性を鍛えることができましたが、今は受け入れる側になりました。純粋に農業を学びたい人だけでなくて、「息子を預かってください」、「引きこもりの子どもを助けて欲しい」っていう風に、困りごとを抱えた人から依頼をされるようにもなりました。
過去の自分が居場所に迷ったとき、きっかけをもらって這い上がることを経験したから、自分も、必要な人にちゃんときっかけを提供してあげたいです。学校に行かなくても、農家は中卒でもなれる。学歴・職歴は関係ないです。覚えておいて損することはないし、農業っていうのは、学校に行けなくなってしまった子どもとか、居場所がない人の受け皿として良い環境なんじゃないかなって思いますね。
奥さん:農業の会社で若い人が働いているところは沢山あると思います。だけど、それは職場であって、生活は一緒にしないじゃないですか。農業は、生活と一緒にくっついているもの、自分の作った野菜を畑から家に持って帰って自分で調理して晩御飯にするっていうのが特徴だと思う、こういうスタイルはすごく良いと思います。
将兵さん:ただ、どうしても受け入れるのにお金はかかってくる、本当にずっとこれをボランティアでやっていけるのかなっていう不安はあります。NPOでそういう団体ができたら、お金の部分はそちらで工面して、自分は農家として受け入れに専念するという形ならうまくいくのかもしれません。どうなるか分かりませんが、そういうことは少しずつやっていこうと思っています。
( 自然に近い環境で育てられる鶏 )
( 家族みんなで )
《大野村農園の卵が食べたい!と思った方へ》
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《イベント情報》
食べる通信 「相馬いのちの芋煮会 ~芋掘り&鶏絞め~ 」
将兵さんが復活させた相馬の伝統野菜「相馬土垂」(里芋)を収穫し、相馬の大豆や米・魚で育った鶏を締める体験をします。そして、収穫した土垂と鶏肉を使って東北地方の郷土食「芋煮」を作っていただくイベントです。
日 時 : 2017年10月28日(土) 10:30~16:30
参加費 : 3,500円(高校生以下は無料)
定 員 : 30名
詳細はイベントページをご覧ください。画像をクリックするとイベントページにジャンプします。
※ お申し込み締切は10月24日まで ※