福島県の浜通り、浪江町。
海と山が近く、港町としての暮らしが息づいてきた土地で、鈴木大介さんは酒を造っている。震災と原発事故で町の時間が一度途切れても、酒だけは“切らさない”。その姿勢は、いわゆる復興ストーリーだけでは片付けられない、地域と人繋がりの物語に満ちていた。
「“背負ってる”って言うと格好つけすぎなんだよね。俺はたぶん、勝手にやってるだけなんだと思う。でもさ、酒って、誰かの節目とか、気持ちの切り替えに必要になる時があるでしょ。だから “切らしちゃいけない”って思ったんだよね」
鈴木酒造とは?──「港町の商い」から続く酒造り
ーまず初めに鈴木酒造とはどんな酒蔵でしょうか。
鈴木大介さん(以下:大介さん)
「一言で言うと、“海の男の祝い酒”って言い方になるのかな。うちはもともと浪江でも海側の、港町の酒蔵だからさ。酒蔵って言っても、実は最初から日本酒一本でやってきた家じゃないんだよね。昔は運送の仕事もしてたし、海産物を扱うような商いもあったって聞いてる。
浪江町請戸地区って、相馬藩の南の交易の港として栄えた場所で、年貢米が集まったり、魚をさばいたり、江戸に運んだり、そういうことを生業にしていた。
天保年間っていうから1840年くらいかな、その頃に相馬藩から“濁酒”、いわゆるどぶろくを造っていいって許しをもらったらしいのね。だから、酒造り自体は江戸時代から。それでも海運業なんかと並行してやっていて。
いつから“酒蔵専業”になったのかっていうと、実は戦後なんだよね。戦前までは鉄道ができて運送の形が変わったり、商いの形が変わったりして、いろいろやってたみたい。でも戦時中の企業整備で小さい事業は辞めさせられて、結局、戦後にじいさんが復員してから“もう酒しか残ってない”って状態で酒造りを再興したっていう流れなんだよね。 だからさ、よく“伝統”って言われるけど、うちの感覚だと“伝統を守ってる”っていうより、“暮らしを続けてたら酒が残った”っていう感じが近いのかもしれないね。」
なぜ“浪江の地酒”と言えるのか──「魚のための味」を変えない

ー 鈴木酒造さんといえば代表的なお酒に「磐城壽(いわきことぶき)」があると思いますが、一言で説明するとどんなお酒ですか。
「俺がよく言ってるのは、“魚と飲むとめちゃくちゃうまい”ってやつね。磐城壽って、派手で華やかな香りで押すっていうより、港で獲れる白身魚みたいな繊細な味を受け止めるための酒なんだよ。浪江の海ってさ、仕事してる人たちの暮らしが先にあって、その横に魚があって、食卓がある。酒はその“横”にいればいい、って俺は思ってるんだよね。 “浪江の酒って何で言えるの?”って聞かれることもあるけど、場所の名前を名乗るっていうより、味の構成だと思うんだよね。どこで造ろうと、その土地の魚の食べ方、酒の飲まれ方、その暮らしぶりを表現したい。そこがブレなければ、磐城壽は磐城壽なんだと思う。」
2011年、震災後一本目のお酒を出した日のこと──並んだ人たちと「娘の祝い酒」

ー 震災後の流れを、教えてもらっても良いですか。そもそも震災後も続けていこうと思ったきっかけとかはあるんですか?
「俺、当時消防団に入ってたから、避難誘導とか広報とかやってたんだよね。高台から、津波が10メートルくらいの高さで酒蔵含めて街に押しよせてくるのを見た時に、“あ、これ何も残んないな”って思った。田んぼも津波に飲まれていくのを見て、思わず“今年、米作れねぇな”って独り言を言ったらしいんだよね。周りからしたら“こんな時に何言ってんだ”って話なんだけど、心がそう反応しちゃったんだと思う。
それで原発事故が起きて、捜索もすぐできなくなってさ。かなり悲惨な状態も目の当たりにしたよ。こんなふうに人が死んで、人の尊厳とかそういうのもなんも津波がさらってったみたいだった。
その時に、亡くなった人たちが浪江で生きた証を何かの形で外に出せないかな、っ思ったのね。 “ものづくりは情報発信でもある”ってことにも気がついて。俺にできるのは酒造りだから、酒を造って出そうって考えた。浪江の酒が一本でも出れば、何か浪江のことや、暮らしていた人の想いを人に伝えることができるかもしれない。で、県内の酒蔵さんに場所を借りて酒を造らせてもらって、2011年7月12日に一本目を出したんだよね。
でさ、その酒を会津若松市の酒屋さん“一軒だけ”に持っていったの。ほんと最初は状況も状況だったから、“一回酒造りができればいいかな”くらいの気持ちもあったんだよね。
ところがさ、発売する日に店の前に並んで待ってる人がいたんだよ。浪江とか双葉の人たちが、避難先からわざわざ来て並んでた。
その中の一人のお客さんが言ったことが忘れられなくてさ。
“避難中に娘が出産したんだけど、震災のあとお祝いする気になれなかった。でも磐城壽ができたって聞いたから、地元のお酒で、みんなで祝うために買いに来たんだ”って。
もうね、そこで涙出ちゃって。酒ってさ、嗜好品とか商品って言えばそうなんだけど、その人にとっては暮らしの情景を思い出すような、そんな存在だったんだって。そういう役割を、俺の酒が担うことがあるんだって気づいたら、“これで終わらせたらダメだな”って、腹が決まったんだよね。」
二拠点で続ける現在地──「外で造っても、大介の酒なら浪江の酒だべ」
ー その後、山形での酒造りを再開することになったと思うのですが。そこに至った理由も聞かせてください。違う土地でお酒を作ることへの迷いなどはなかったですか。
「次のお酒を造れないのが一番怖かったんだよね。酒って、続けて出せないと“その酒”が途切れちゃうでしょ。しかも浪江の人たちが精神的に頼ってくれたものが、“次はありません”ってなったら、俺はそれを言えないなって思った。
そんな時に、ちょうど県外でやらないかって声をかけてもらってた蔵があってね。もちろん環境の違いとか資金面とかの不安もあったんだけど、時間がないって思って、思いきって外でやってみようって決めたのが山形県の蔵なんだよね。2011年10月の終わりには会社を動かして、金もないんだけど、山形の銀行にお願いしたり、縁をつないだりしてさ。
で、俺がまた救われたのが、やっぱり浪江のお客さんに言われた言葉なんだよ。
“別の場所で造ってても、大介が造ってる酒なら浪江の磐城壽なんだべ。”って。あれもグッときたなぁ。笑
なにかを、“名乗る”んじゃなくて、“そう思ってくれる人がいる”ってだけで、続ける理由になるんだよね。
今では浪江の道の駅で鈴木酒蔵浪江蔵としてもやらせてもらって、浪江に帰ってくることもできた。二拠点での酒造りは気温や水の質とか何もかも違って、今までの自分の酒造りのノウハウが通じないこともあって毎回大変だけど、それも徐々に経験が貯まってきて色々できることが増えてきたと思うよ。」
「守る」と「攻める」を分ける──造るお酒に込めるメッセージ

ー そんな中、鈴木酒造さんは磐城壽の伝統を守りつつ、新しい挑戦をしたような商品も多い印象です。バランスはどう考えていますか。
「俺はね、レギュラー商品と企画ものは、最初から“別の役割”って決めてるんだよね。レギュラーは、最初に話したみたいに浪江の人たちが飲んで、魚と合わせて“絶対に外さない”酒。これはもう責任だと思ってる。港町の酒蔵としてのベースだね。
で、企画ものは、ちゃんとチャレンジする。だって日本酒って、成人しか飲めないし、統計で言うと消費の比率もどんどん落ちてきてるでしょ。だから話題を作る、入口を作るっていう意味でも、企画は必要なんだよね。要するにこれが“ものづくり=情報発信”の側面だね。
例えば、魚料理とあうお酒のシリーズを作れば魚好きに届くかもしれないし、ランナー向けのお酒を作ればランナーのメディアが拾ってくれるかもしれない。酒単体で完結するんじゃなくて、何かと“コネクト”していく。そうすることで、このお酒どこのお酒だって思ってもらえれば浪江のことが人に伝わる。いろんな切り口で、この地域のことを人に伝えることができるきっかけになればと思ってるよ。」
酒と町の接続点──柴栄水産と陶吉郎窯、三社で「浪江の食卓」をつくる

ー 今までのお話を聞くと酒造りの枠を越えて、まちづくりの動きにも踏み込んでいる印象があります。
「いやいや、そんな大層なことは言えないよ。でも、酒だけ造って地元に何もしないで、“売れてます”って蔵はなんか違うよなって、って昔から思ってたんだよね。酒って、結局造ってる人がいい人じゃないとみんな飲んでくれない。笑
結局は地域のお酒っていうのは、単純な売り手と買い手じゃなくて持ちつ持たれつの関係で、ずっとやってきたわけでしょ。
だから、浪江に恩返しと言えるかわからないけど、、浪江の物産とか食文化をちゃんと外に出そうってことで、うちの酒蔵と柴栄水産さんと陶吉郎窯さんで組合を作ったんだよ。酒・魚・器、三つが揃うと“一つの食卓”になるでしょ。浪江の魚を浪江の器に盛り付けて、浪江の酒と食べる。去年の5月に立ち上げて、7月には知り合いの料理人に浪江の魚でフルコース作ってもらうイベントもやったりしたよ。料理を出して、器と酒をペアリングして、物販もして。
一社だけだと横のつながりって簡単じゃないんだよね。でも柴栄さんは高級料亭ともつながりがあるし、陶吉郎窯さんは“器”で物語を持ってる。俺らの取引先も含めて、お互いの出口を広げられる。震災のこと抜きにしても、やっぱり今地方の伝統産業が弱っているからこそ、こういう繋がりが大事だと思うんだよね。
地元の食材があって、地元の酒があって、地元の器があって…。それを食べたり飲んだりできる。これが町に残るって、実はすごいことなんだよなぁ」
10年後に向けて──海のイメージを「プラス」に変える挑戦

ー この先、10年単位でやっていきたいことはありますか。
「浪江の良さ、ものの良さを伝えるのは、もうずっと続くんだよね。あと新しい企業さんが浪江にもどんどん入ってきてるから、その人たちとどうタイアップするかも課題だと思ってる。で、俺は海の近くで商売してきたから、海に対するイメージをプラスに持っていきたいんだよね。
処理水とかの話が出ると、どうしてもマイナスのイメージを持つ人がいるでしょ。だから、マイナスだけじゃなくて、プラスのイメージを作る。例えばお酒の海洋貯蔵、海洋熟成みたいなことね。よくワインとかではやったりするんだけど、浪江のコンクリート会社さんと協力してできないかって話始めてる。あとは陶吉郎窯さんの“貯蔵瓶”みたいな器で、熟成がどう上がるか分析してもらってるところなんだよね。結果がちゃんと出たら、“10年後に一緒に飲もう”っていう楽しみを作れるでしょ。そういう“将来の楽しみ”を町に増やしたいんだよね」
ー 最後に、これから浪江と出会う人に伝えたいことがあればお願いします。
「俺がいつも思うのは、“この土地の価値って、食べるとすぐ分かる”ってことなんだよ。海のものもあるし、山のものもある。暮らし文化がちゃんとある。だから、その近いところで仕事させてもらってる以上、広めていかなきゃって思う。
収穫物をみんなが持ち寄る場があって、そこにうちの酒がいつもある。浪江の食材を使って料理人を呼ぶ収穫祭みたいなイベントもどんどん続けていこうと思ってる。俺は酒が主人公だと思ってなくて、主役はそっちなんだよね。食材とか、人とか、暮らしとか。酒はその横にいればいい。二人三脚っていうより、“同じテーブルにいる”って感じかな。
最近は浪江の夜、自宅の窓を開けて外を見た時に明かりが増えてるのを見ると、ちょっとほっとするんだよね。最初は“人いるのかな”って不安だったけど、今は明かりの数で分かる。ああ、住んでる人増えてきたなぁって。そういうのが嬉しい。だから、できることを切らさずに、続ける。それだけなんだと思うよ」
鈴木酒造店のお酒は、浪江のお酒だ。それは細かな定義や作っている場所や、ましてや自分たちで名乗るわけではなく、人の想いに紡がれて自然とそうなっていくのだと感じた。
わかりやすく大きな気概や大それた信念のようなものを掲げず、自然体のままお酒を作り続け、自然な態度でお世話になった人や地域に還していく。鈴木大介さんがお酒にこめた“想いの循環”のようなものは、人と人が自然につながってお互いを思いやる姿を思い起こさせた。
磐城壽が“海の男の祝い酒”と聞くと豪快なイメージがあるかもしれないが、その一献には、時として忘れかけてしまうような、人と人との柔らかなつながりや地域の温かな想いが溶け込んでいる。
(取材・文:小波津龍平)

